幼稚園

「雨にもマケズ…」を使って…

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1~5)

園長 佐藤 直樹

先日、東京のカトリック学校の父親聖書研究会から依頼を受け、Zoomを使ったリモートで講演をしました。講演の中で上記の福音箇所を引用し、「自分を低くして、この子どものようになる人…」とは…?を、子どもたちの姿の中にこそ、私自身、今、目の当たりにしていると語りつつ、宮沢賢治の有名な、あのヒューマニズム満ち溢れた詩が思い出されて、自分なりに、こんな詩を作り、参加したお父さんたちにも、「天の国でいちばん偉い」と語るイエス・キリストの真意にも気づいてもらおうと思ったのです。

「幼稚園の子ども達は、コロナに負けず」

アルファー株にも負けず デルタ株にも負けず

ステイホームにもマスク生活の暑さにも負けぬ 丈夫なからだを持ち

欲は無く 決して瞋(いか)らず 何時も朗らかに笑っている

一日に炭水化物とタンパク質と野菜をバランス良く食べ

コロナ対策の あらゆる事を 自分を勘定に入れずに

三密を避け、親や先生の言うことを、良く見聞きし判り そして忘れず

園庭の遊具の影、小さな砂場にみんなで仲良く居て

東に陽性者の子供あれば 行ってあげられない分、イエスさまに「治りますように」と祈り

西に自粛疲れの友だちあれば 行って「大丈夫…」と、そっと寄り添い

南に旅行に行けなくても 「コロナだから行けないの」と言う親の言葉を聞き分け

北に分断や批判があれば  「つまらないよォ、仲直りしようよ」と言い

地球温暖化による日照りのときは涙を流し  降雨線状帯の夏はオロオロ歩き

皆が感染予防対策と呼ぶことを  誉められなくても 苦にもせず

そういうことが普通にできる者に  私はなりたい

園長の悲喜こもごも -  2021. 10.07

普通のことが普通にできる幸せ!

あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。(旧約聖書 詩編25編5節)

園 長  佐 藤  直 樹

最近、テレビの報道番組で東京五輪の組織委員会に関係している方がゲストに迎えられ、ニュースキャスターの質問に答えている場面に出くわします。質問に対するゲストの答えの中身が、どこか喉に詰まった感として残る歯切れ悪さと、しこりを残すかのような「納得」しきれない違和感ある内容に対して、今回の五輪開催が、やはり「普通ならば…」とまで言い切った専門家の判断にもあるように、ごく“普通”の判断が“普通”に出来ない事で、無理に辻褄を合わそうとする矛盾から生じる、“分裂”を起因とした歯切れの悪さであり、言われている事と実際にやる事の一貫性が感じられない部分での違和感なのかな…?と個人的には思われて仕方ありません。「観戦」が「感染」にならないことを願わずにはいられません。

それだけに、ありのままに『普通でいられることが、実はいかに大切なことか!』に思いが馳せられます。普通のこととして普通に物事を判断できる!普通にやるべきことを普通にこなせる!求められた時、求められたことに普通に取り組める!人との交友を普通に深められる!自分自身も他者も普通に受け容れられ・受け容れている!みんなの幸せをこそ平和とする普通など……コロナ禍を通して、今まで当たり前に思われていたことが当たり前ではなくなり、世の中『当たり前=当然』の事など何一つもない事を痛感させられた昨今、それこそ、神様のまことのうちに普通でいられること、神様のまことのうちに過ごせる普通…神様のお望みがかなう中にこそ幸せがある普通、全てのことに感謝しながら、心ある人としての歩みをしていくことをこそ普通にしていきたいですね。

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 07.06

単なる偶然と見るの?神さまの働きかけと見るの?

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。(二人の弟子たち)は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ福音20:1~2・6b~9)

園 長  佐藤 直樹

上記の福音箇所は、「イエスの復活」についての記述です。イエスの弟子たちが見たのは、十字架刑によって殺されたイエスの遺体を収めた墓が空だった現実と事実です。空の墓を見た現実を通して、弟子たちはイエスが死者のうちから復活した事実を信じていきます。「復活のいのち」と言う信じる者に与えられる「神のいのち」を知る上で、現実を「愛」に照らし、どのように“見る”かで、その現実を事実とする事が出来るかが大切になります。そのためには、①視覚と言う身体の目で見た現実を、②心で思い巡らす反芻の目で見ることによって、③信仰の目でしか見ることが出来ない、神様からの働きかけとして信じたことを事実と受け留めるのです。

例えば、先日の天気予報で、首都圏は4週連続で週末の天候が崩れました。4週連続でぐずついた天候となる現実に気象予報士の方も驚いていました。また4週前と言うのは関西の緊急事態宣言が解除されたタイミングでした。この現実を①身体の目で見ると、単なる低気圧が7日間周期でやって来ただけの偶然になります。②心の目で反芻すると、首都圏は緊急事態宣言中で不要不急の外出を避ける必然のタイミングでしたから、「ステイホームするのが“命を守る”行動だよね」と思いを巡らせます。③心の目の理解を信仰の目で見ると、あたかも偶然を装うがごとく、神は天候を崩すことで、物理的に外出に伴う人流を止めようとされているのかも…?「神様は、人間の自らの節制の業と命を守るための愛に基づく行動を通して、日本の新型コロナウィルス終息に報いようとしている!」と信じつつ、そう見た事実を自らの行動の規範とするのです。神の働きかけと感じた時、人は自らの思いを遂げることより、愛に照らした行動を採るようです。「復活のいのち」とは、見て、信じた事の行動を促す原動力でもあるようです。

園長の悲喜こもごも -  2021. 06.08

スミレ幼稚園に於ける、2021年度年間教育目標  2021.4.30

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙3:12~14)

 

園長  佐藤 直樹

上記に掲げた聖パウロの手紙でも、目標を目指して進むことは、神であるイエス・キリストへと繋がる事にもなるように、今年度、スミレ幼稚園でも子どもたちが、イエス・キリストに結ばれた神さまの子どもとして成長してもらう為の年間目標を掲げさせて戴きました。

❶.一学期:「自分がすること」 ❷.二学期:「みんなですること」 ❸.三学期:「みんなと一緒になるために自分がすること」です。

スミレ幼稚園は「一斉保育」の幼稚園ですので、一人一人(=「個」)が共通のテーマ(=「全員」)で取り組む事による、全体としての成長の現われが、一人一人の「個」の成長にも大きく反映する教育形態を保育の中に採用しています。それだけに一学期は、全員の成長を促す上で、先ず「自分がすること」を通して、「個」である一人一人の力を伸ばしてもらうことにウエイトを置きます。二学期には、自分できちんと出来る事を通して成長した「個」が「みんなですること」の中で、自分を「生かし・生かされる」事によって、全体の成長に結びつく事を目指します。そして三学期は、全体として成長を遂げ続けていく「みんなの(=と一緒になる)ために自分がすること」をもって、「個」が「みんな」に対して貢献出来ることを喜んでやる事、また「全員」でクラスのお友だち「一人一人」を大切にしていく事で、「関わり方」や「つながり」を大切にしつつ、最終的にみんな(=全員)が成長した部分をゴールとして達成出来る事を切に望んでいます。みんなが成長するとは、当然「一人一人(=個)」が成長する事へと繋がるのです。

今年度の年間目標を、ご家庭と幼稚園で共有しつつ、継続的なサポートケアーを通して、子どもたちの将来に繋がる成長へと結びつけることが出来るのを願っています。

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 05.14

単なる偶然と見るの?神さまの働きかけと見るの? 2021.4.8

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。(二人の弟子たち)は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ福音20:1~2・6b~9)

 

園 長  佐藤 直樹

上記の福音箇所は、「イエスの復活」についての記述です。イエスの弟子たちが見たのは、十字架刑によって殺されたイエスの遺体を収めた墓が空だった現実と事実です。空の墓を見た現実を通して、弟子たちはイエスが死者のうちから復活した事実を信じていきます。「復活のいのち」と言う信じる者に与えられる「神のいのち」を知る上で、現実を「愛」に照らし、どのように“見る”かで、その現実を事実とする事が出来るかが大切になります。そのためには、①視覚と言う身体の目で見た現実を、②心で思い巡らす反芻の目で見ることによって、③信仰の目でしか見ることが出来ない、神様からの働きかけとして信じたことを事実と受け留めるのです。

 

例えば、先日の天気予報で、首都圏は4週連続で週末の天候が崩れました。4週連続でぐずついた天候となる現実に気象予報士の方も驚いていました。また4週前と言うのは関西の緊急事態宣言が解除されたタイミングでした。この現実を①身体の目で見ると、単なる低気圧が7日間周期でやって来ただけの偶然になります。②心の目で反芻すると、首都圏は緊急事態宣言中で不要不急の外出を避ける必然のタイミングでしたから、「ステイホームするのが“命を守る”行動だよね」と思いを巡らせます。③心の目の理解を信仰の目で見ると、あたかも偶然を装うがごとく、神は天候を崩すことで、物理的に外出に伴う人流を止めようとされているのかも…?「神様は、人間の自らの節制の業と命を守るための愛に基づく行動を通して、日本の新型コロナウィルス終息に報いようとしている!」と信じつつ、そう見た事実を自らの行動の規範とするのです。神の働きかけと感じた時、人は自らの思いを遂げることより、愛に照らした行動を採るようです。「復活のいのち」とは、見て、信じた事の行動を促す原動力でもあるようです。

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 05.14

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