幼稚園

「誠実さ」…それが、一番大事!

五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ25章20節~23節)

園長 佐藤直樹

この福音の箇所は、通常「タラントン(=イエス様の時代の通貨単位)の喩え話」として語られている話の一部分を抜粋しました。五タラントン・二タラントン・一タラントンを三人の僕たちは各々、主人から預かり、預かったタラントンについての報告をした場面です。

『宗教』の授業で、この喩え話を学生たちにする度ごとに必ずこの質問を投げかけます。「キリスト教の神様って、あなたの人生の何をご覧になるか分かる?」って……。多くの日本人は閻魔大王のイメージが強いようで「どれくらい善いことをしたのか?どれくらい悪いことをしたのか?を見て、善いことをした人は極楽往生が出来、悪いことをした人は地獄に行く」と言う因果応報的なニュアンスの答えがとても多い印象に見受けられます。

キリスト教の神様がご覧になるのは、いかに「善いことをした・悪いことをした」ではなく“忠実さ”です。いかに自分が戴いたものに対して「誠実」であるかをご覧になることが、上記の福音箇所の主人の言葉からも理解できます。私たちが神様から戴いたタラントン(=贈り物)とは、いのち、人生、才能、家族や友人、仕事や余暇、身体や健康、時間や機会、お金や財産、成功や失敗・挫折、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、約束や誓いなど、与えられた環境や様々な出来事も含め、全ては神様から戴いて、私自身が預かったタラントンです!神様の視点は、私の戴いたものに対する忠実さ…誠実さが求められています。それだけに、スミレ幼稚園の姿勢や見方も、それが「善いか・悪いか」ではなく、「それが誠実なのか否か」でもあると思っています。

 

園長の悲喜こもごも -  2020. 10.14

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネによる福音書12章24~25節)

自分の命を真に「愛する」とは、自分の命を使うという「捨て方」が出来ること。

園長  佐 藤  直 樹

最近、「コロナウィルスって、よく出来ているなぁ~」と不謹慎な物言いですが、感心せざるを得ないことがあります!なぜなら、全ての人が心と思いを一つにし、皆で感染予防と言う共通善に取り組む姿勢で予防策を実践した時に感染拡大が抑えられたのです。だから、誰一人「無関心」を装う事も、「自分くらいは、やらなくても大丈夫」等の甘えが全く通用せず、「自分がそれをしなければ」防げないのです。そして自分の事ではなく、他者の命を尊重する行動を取った時にも、感染は広がっていません。それが今回、お盆期間中の帰省や外出自粛と言う形を通して、自分の「やりたい・したい」思いや望みを一先ず置いて、他者の命を守る行動をもって現わされました。つまり、コロナウィルス感染が拡大か抑制かについての凄いところは、一人一人の「自分自身の使い方」によると言う事です。

イエス様も永遠の命にまで至る命の在り方を、この福音箇所で語っています。いつも「自分」・「自分の思い・願い」・「自分のしたい事・やりたい事」ばかりにだけ終始し、自分の為だけに自分を使おうとする人は、自分の命を失う事になると……。それよりも、この世で自分自身を使う事によって、自分に死ぬことが出来る人、他者の命に思いを寄せ、それを守るが為に、自分の命すら惜しまず使って奉げられる人が、逆に永遠の命を勝ち取ると……。

このコロナ禍で、それでも「自分のやりたい事」をしようと、そのために自分を使う人もいれば……、だからこそ「自分よりも、他を尊重する事こそが肝要」として、自分を捨てて奉げられる人もいます。

 

園長の悲喜こもごも -  2020. 08.27

あなたの持っている、人としての「秤」は、どんなもの?

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7章1~5節)

 非常事態宣言時に「自粛警察」気取りの人たちが目を光らせては、人を裁き、断罪・糾弾し幅を効かせていましたね。あれを見た時は、平清盛時代の「禿(かむろ)」か、江戸時代の「五人組」、戦時中の「特高警察」が彷彿させられました。けど、県境を越えた移動が許され、観光地の報道を見た時、「3密を避けると言っておきながら、週日の都心部の状態が、週末に観光地に移動してきただけじゃん!矛盾…矛盾!言っている事と、やっている事が全く違う!」とテレビに向かい言い放って、観光客や都心部に集まる人たちを裁いている、まるで「自粛警察」気取りの自分がいるのです。

 イエス様は狭量なコメントで裁く人たちに「自分の裁き方」が、そのまま自分に降りかかると言います。ならば私の秤のウエイトはどっちにしますか?厳しく他者を責め立てて、自分の正義を振りかざすのか……それとも、自分も弱い人間の一人として謙虚にへり降り、やさしさの眼差しでありのままを受け留め、寛大な心をもって、人の過ちな行動を赦しの姿勢で見てあげられるのと……

 園長 佐藤直樹

 

園長の悲喜こもごも -  2020. 06.29

試錬を耐え忍ぶ人は幸いである。

試錬を耐え忍ぶ人は幸いである。それを忍び通したなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ欲に引かれ、誘われるからである。(ヤコブの手紙1:12~14)

いよいよ、これからが本番、これからが本性の現れる時

園 長 ・ 佐 藤  直 樹

先日、ニュースの中で作家の多和田葉子さんがインタビューされていました。彼女はその中で、今回のコロナ禍の状況について「非常に厳しい“コロナテスト”をすべての国が受けていると思うんですよね、今……世界中がある意味では課せられた課題というかテストなので今回は。テストですよ。日本も頑張ってほしい」と語っていました。ある国は、それでも経済を優先し感染者数世界第3位にまで、のし上がりました。ある国は火事場泥棒のように、どさくさ紛れに政府がなんでも勝手に決められる制度にしようと、そのチャンスを狙っているようにしか見えない国もありましたね。ドイツのメルケル首相は「私たちは思いやりと理性を持って行動し、命を救っていくことを示していかなければいけない。 例外なくすべての人々、私たち一人一人が試されている。みなさん自身と大切な人の健康に気をつけてください」というメッセージを発信した国もあるのです。

「試練」と「誘惑」は聖書では同じ言葉を使っています。『Withコロナ禍』の中で、新しい生活様式が始まろうと言う時、この困難な状況を「試練」とするのか、「誘惑」にするのかは一人一人の取り組み方と行動の実践という「本性」の現れ方に掛かっています。

 

園長の悲喜こもごも -  2020. 06.05

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