幼稚園

「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てる

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイによる福音書7:12)。」

園長  佐藤 直樹

昨年度の三学期、「〇〇ちゃんが、今まで手付かずの状態になっていた生活習慣を、自分からするようになりました」とか、「〇〇君が、小さいお友だちが出来ないところのやり方を教えてあげていました…出来る事が増えて、お兄さんになると、ますます優しくなるものですね」などの話を耳にする機会が、めっぽう増えました。

今まで出来なかった事が出来るようになる喜びは、出来るようになった事が、他の誰かの役に立っていたり、誰かへの「思いやり」や「やさしさ」に繋がったりすると倍増します。それだけに、自分で出来るようになることが増えると言うのは、同時に「思いやり」や「やさしさ」を示す機会も増えていくことになります。

「思いやり」の心や「優しさ」を育てる上で、「出来た!」と言う、自分で何かが出来るようになる喜びを、この時期にたくさんすること。そして出来るようになったことが、何かの役に立っている喜びにつながること、そして他の誰かに喜んでもらえる体験を通して、「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てていくことが大切です。

どこの宗教にも「黄金律」と呼ばれるものがあります。ただし、キリスト教以外の宗教は自分が「してほしくないこと」は、人に「してはいけません」と言うネガティブ表現で記します。自分が「してもらえたら嬉しいこと」を、人に「する」と言うイエスのこのことば……この時期に「出来た!」の幅と、「もっと、もっと人にしたい」と言う幅が大きくなると、この「黄金律」の世界も広がるようです。

園長の悲喜こもごも -  2022. 04.21

「良い実」はプロセスと言う歩みの中で

そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 (マタイによる福音書 7:17-20)

園長  佐藤 直樹

年度が終わりに近づくこの時期に、朝、各クラスのお部屋を回っていると、こども達一人一人、自分で出来ることが確実に増えていることに気づかされます。そして、自分のやるべきことを自分でやることの成果を通して、こども達の成長は感じさせられます。

年少クラスでは、スモックや体操服への着替えが普通に出来る。お弁当を出して、カバンを自分の棚に掛けること等、「自分」でする事の生活習慣が身についた部分の成長が顕著です。年中では、朝の自由遊びで作ったものを「園長先生、見て見て!」と見せてくれますし、友だちと一緒に何かをする姿など、自分の事だけではない、「みんな」との関わり方を身につけていく成長が著しいです。年長になると、与えられた朝の自由遊びの時間で、自主的に「何をしたいの…?何をしなければいけないの…?」と言った、「自分に与えられた時間の使い方」、またルールがある遊びなどにも取り組むことで、「みんな」と一緒にいる場所で、「自分に与えられた自由の使い方」が自ずと身についている姿を目の当たりにします。

成長や成果に見られる実りとは、一朝一夕で身につくものではなく、年間を通しての歩みが、いかに大切かを思い知らされます。その歩みのプロセスで求められるのが「関わり」です。どのような「関わり」のプロセスが、こどもの成長の歩みの中で結果的に実るかを、マタイ福音書は「良い実」と「悪い実」として示します。

先日、閉幕した北京オリンピックですが、アスリート達のインタビューを聞いて、全てのアスリート達が支えて下さった方々への感謝を口にしていました。オリンピック出場に至る自身の成果や成長よりも、感謝の言葉が出るのは、アスリート自身に与えられた「関わり」と言うプロセスが、いかに今の「良い実」を結ぶに至ったかを物語っているのでしょう。

 

園長の悲喜こもごも -  2022. 03.10

いよいよ、“みんなのために自分がする”時代に突入です!

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ福音書15章12~13節)」

園長  佐藤 直樹

オミクロン株による感染者数の爆発的増大が止まらず、10代以下の子どもたちへの感染も12000人を超え(令和4年1月20日現在)、日本各地で幼稚園や保育園の臨時休園も相次いでいます。

先日のニュースで、休園に追い込まれた園の園長が「今までの(コロナ対策の)やり方では通用しません」と今回の変異株の脅威を語っていました。この言葉を耳にした時、私自身「あのインタビューの言葉は、対オミクロンの件に限った事ではなく、アフターコロナの時代になった時、ありとあらゆる分野で求められてくる対応だろう」と思わされました。その一つとして、今までのコロナ対策にも求められていた姿勢としての、「自分自身の命を守る」「大事な人の命を守る」と言う従来の考え方や価値観だけでは通用しなくなったと言えるのかもしれません。

それだけに、今年度の目標として掲げた「自分ですること」「みんなですること」はコロナ対策を実践する大前提としても、“みんなのために自分がする”とした三学期の目標を通して、目的や意味(「ため」)と、誰がそれを主体的に「する」のかを、はっきりさせることで、今までのやり方を超える実践を通して、第6波の終息に貢献できればと思います。では、“みんなのために自分がする”事で、一番のものとは何でしょうか?それこそ、スミレ幼稚園が最も大切にしている「思いやり」に他なりません。

上記のイエスのことばも、お互いに自分が「愛する」ことを通して、目的としての神の愛が私たちの間に実現します。

 

園長の悲喜こもごも -  2022. 02.10

アフターコロナの時代とは、「みんなのために、自分がする」時です。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15:13)

園長  佐藤 直樹

10月、東京のあるカトリック幼稚園から、保護者会主催の『講演』依頼を受けました。後日、その幼稚園のHP内にある保護者サイトに掲載されると言うことで、その収録を、先日してきたのです。先方からは『アフターコロナに求められる親子関係について』と言う壮大なテーマを頂戴し、当初は「そのテーマに答えがあるならば、そんなの既に皆、実行しているよォ」と言う弱音を漏らしつつも、収録当日は、『イエスを信じる一介の神父に映った、コロナ禍を通して気付かされたこと!~ウィズコロナの中で、親子の関わりが目指していくことを、福音を通して考えて見る~』と題して、あれよあれよと1時間15分近くも喋った自分がいました。

さて皆さんは、アフターコロナの人間社会は、どのようになると思われますか?コロナ禍にあった、この二年余り、「緊急事態宣言」と言う言葉一つを取り上げても、人それぞれが宣言の意味する捉え方や意識の相違によって、「命を守るための行動」だけでも「する・しない」で、ほぼ二極化しました。それを目の当たりにしただけでも、今後、ますます、❶.「協力(みんなで…)」が進むか?❷.「個人(その人だけ…)」が助長されるか?の二極化!だろうと私自身は推測しています。特に「する・しない」は、子どもたちの「命を守るための行動」として、将来の環境をも左右する「地球温暖化対策」や「SDGsへの取り組み」方に、この二極化は如実に表れてくるものと思われます。

スミレ幼稚園での三学期のテーマは「みんなのために、自分がすること」です。自分がすることで、自分のためになるよりも、自分自身を含めた「みんな」のために繋がる取り組みや実践の大切さ…。年度初めの折は、コロナ禍ゆえに掲げたテーマではありましたが、今になり、ウィズコロナの中で親子の関わりが目指していくことも、スミレ幼稚園の目指す「心の教育」の集大成としても、この三学期のテーマは、とても大切な意味を持つものと感じられてなりません。

園長の悲喜こもごも -  2021. 12.23

単なる偶然と見るの?神さまの働きかけと見るの?

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。(二人の弟子たち)は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ福音20:1~2・6b~9)

園 長  佐藤 直樹

上記の福音箇所は、「イエスの復活」についての記述です。イエスの弟子たちが見たのは、十字架刑によって殺されたイエスの遺体を収めた墓が空だった現実と事実です。空の墓を見た現実を通して、弟子たちはイエスが死者のうちから復活した事実を信じていきます。「復活のいのち」と言う信じる者に与えられる「神のいのち」を知る上で、現実を「愛」に照らし、どのように“見る”かで、その現実を事実とする事が出来るかが大切になります。そのためには、①視覚と言う身体の目で見た現実を、②心で思い巡らす反芻の目で見ることによって、③信仰の目でしか見ることが出来ない、神様からの働きかけとして信じたことを事実と受け留めるのです。

例えば、先日の天気予報で、首都圏は4週連続で週末の天候が崩れました。4週連続でぐずついた天候となる現実に気象予報士の方も驚いていました。また4週前と言うのは関西の緊急事態宣言が解除されたタイミングでした。この現実を①身体の目で見ると、単なる低気圧が7日間周期でやって来ただけの偶然になります。②心の目で反芻すると、首都圏は緊急事態宣言中で不要不急の外出を避ける必然のタイミングでしたから、「ステイホームするのが“命を守る”行動だよね」と思いを巡らせます。③心の目の理解を信仰の目で見ると、あたかも偶然を装うがごとく、神は天候を崩すことで、物理的に外出に伴う人流を止めようとされているのかも…?「神様は、人間の自らの節制の業と命を守るための愛に基づく行動を通して、日本の新型コロナウィルス終息に報いようとしている!」と信じつつ、そう見た事実を自らの行動の規範とするのです。神の働きかけと感じた時、人は自らの思いを遂げることより、愛に照らした行動を採るようです。「復活のいのち」とは、見て、信じた事の行動を促す原動力でもあるようです。

 

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 12.06

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