幼稚園だより
「粽(ちまき)」の由来を通して、「徳の花」について思う
園長 佐藤直樹
2300年以上前の中国に、屈(くつ)原(げん)という詩人がいました。国王の側近として、正義をもって国を思う彼は、人々から慕われますが、陰謀により失脚し、国を追われてしまいます。その時の思いを綴った「離騒(りそう)」という叙事詩が名作となりますが、国の行く末に失望した屈源は、5月5日、汨(べき)羅(ら)という川に身を投げてしまいます。国民は屈(くつ)原(げん)の死を悲しみ、弔いの供え物を投げ入れますが、屈原に届く前に、川に潜む龍に盗まれていました。そこで人々は、龍の苦手な楝樹(れんじゅ)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色の糸で縛り、川へ流したところ、無事に屈(くつ)原(げん)のもとへ届くようになります。これが「粽(ちまき)」の始まりとなり、中国では5月5日に粽(ちまき)を作ることが、災いを除く風習となり、端午の節句と共に粽(ちまき)が日本にも伝わります。粽(ちまき)に結んだ「赤・青・黄・白・黒」の五色の糸は、子どもが無事に育つための「魔よけ」として、鯉のぼりの吹流しの色に反映されていきました。
日本では古来より節句の際に“邪気を祓う”ことが慣例とされましたが、キリスト教の精神では“徳を積む”ことが慣例です。世界中でも五月に「母の日」を祝うように、キリスト教は五月を神の母である「聖母マリアの月」としています。
スミレ幼稚園でも、マリア祭に向けた「徳の花」の実践をします。“やさしい心”を持つために、先ず「〇〇さんに、〇〇の親切をする」と子ども自身が意識して人に“親切”をすること。親切する“思い”をもって“やる”ことが“思いやり”の心を育てていきます。ご家庭に配布される「徳の花」シートに色を塗る意味は、意識するところにこそあります。幼稚園では、「徳の花シール」を貼っていきます。
徳を積む機会を通して、子どもたちの「やさしさ・親切・思いやり」の心が大きく成長しますように。
「心」が育つことを何よりとする幼稚園
園長 佐藤直樹
スミレ幼稚園では、キリスト教精神に沿って「心の教育」、子どもの「心」が育つことを大切にしています。特に素直な「心」そのものが育てば、「学んだことを身につけていくこと」も容易です。
例えば、話しを聞くという場面の時、心が素直な状態であれば、自ずと「きちんと聞こう」とする姿勢の中に素直さが現われているので、言われたことは受けとめられているものです。逆に歪んだ心の状態には、元々、聞こうとする意思は無いので、閉ざされた心には、何も届きません。そこで、何かをきちんと受けとめていこうとする素直な心が育つために大切なのは、普段から子ども自身が「愛されている」と感じられることです。
特にスミレ幼稚園では「やさしい心」・「親切な心」・「思いやりのある心」を大切にしています。やさしい心が育てば、人に対してだけでなく、何かに取り組む姿勢にも自ずとやさしさをもつものです。
親切な心が育つと、丁寧な心掛けが、人にも物事への行動にもにじみ出ます。思いやりの心とは、他者を思いやるだけでなく、自分のやるべきことにも思いや意志を込めて「やっていこう!」とするようにもなるのです。
何かが身につくことを考える際、私たちは、ついつい「理解力」で見極めようとしますが、人の「心」の有り様……「愛されること」が感じられ、「愛すること(やさしさ・親切・思いやり)」を通して、ものごととは身につく視点を、スミレ幼稚園は日々の保育の中で大切にします。
健やかな「心」の成長があるところには…
園長 佐藤直樹
3月の年中行事と言えば「ひな祭り」です。ひな祭りは、季節の節目を祝う「五節句」のひとつで、 正式には「上巳(じょうみ)の節句」と言います。ちょうど桃の花が咲く時期とも重なることから、 「桃の節句」という名で親しまれています。 「ひな祭り」のひなあられは、お米を揚げたポン菓子のことですが、3色(赤・緑・白)と4色(黄が加わる)のものがあり、それぞれ色には意味があります。赤には血を表わす「生命の力」。緑は木々の芽吹きを示す「自然の力」。白は雪をイメージした「みなぎる力」を表すそう です。また、4色ひなあられになると、四季(春・夏・秋・冬)のエネルギーを取り込みながら、1年を通じて健康と幸せを願うと言う意味になります。 ひなあられを節句に食べることで、健やかに育つ願いが込められています。
健やかに育つ上で、心の成長は欠かせません。身体の成長は目に見えて感じられますが、 キリスト教精神に於ける「心」の成長とは、その人がする行いや、取る姿勢が「どのような善い実りを結んだか?」によって見えると言います。特に自分がする行いが、他者に「どのような影響をもたらすのか?」への気づき。つまり、「善い心掛け=行い」の実りを通して、「心」の成長は感じられるのです。だから、「心」が成長しているところには、いつも「やさしさ・親切・思いやり」の心が雰囲気の中にも満ちています。
「豆まき」の風習に、キリスト教のエッセンスを入れてみる…
園長 佐 藤 直 樹
節分時の「豆まき」は中国から日本に伝わった「追儺(ついな)」と呼ばれる儀式が起源だとされています。古く中国では、病気や災害、飢饉などの厄災は鬼の仕業だと考え、災いを起こす鬼を祓う儀式を行ってきました。これが日本に伝わると、平安時代には、季節の変わり目(=節分)の疫病・災害を鬼に見立て、それを追い払う宮中行事として「追儺(ついな)」を行うようになりました。また豆まきの際の「豆や米=穀物」には魔除けの力があるとされ、お祓いの際に使うようになります。「魔目(まめ)=鬼の目」を投げることで「魔滅(まめ)=魔を滅する」を願う意味で、節分には豆をまいて邪気を祓い、無病息災を願うようになります。
スミレ幼稚園でも子どもたちは、自分自身のエゴなところや、苦手や弱さなどの克服すべき部分を鬼に見立てて「豆まき」をしています。「豆まき」をキリスト教的にとらえる時、鬼を祓うと言う発想よりも、「やさしくなる心や人に親切にする思いやりの心を、イエス様もっと下さい」と、神さまの愛に自分が満たされることを祈り願うと言う、どちらかと言えば「福は内」の発想の方が近いかもしれません。それだけに豆は「まく」よりも、豆をみんなで「分かち合い」、神様のお恵みとして自分の内に「入れる=食する」ニュアンスの方が強調されると思います。
神さまをお迎えすることが新年ということ
園長 佐藤直樹
新年の歳時記と言えば「お正月」です。1月を正月と言うのは、「正」と言う字に年の初め、年を改めるという意味があるからです。一年の始まりである正月は、「年(とし)神様(がみさま)」が各家庭に降臨され、五穀豊穣や家内安全をもたらすとされています。また正月の鏡餅には、年(とし)神様(がみさま)の魂が宿るとされ、宿った鏡餅(=これを年(とし)魂(たま)といいます)を、家長が家族に配ったことがお年玉の由来です。時代が経ちそれがお餅からお金へと変わっていったのです。
年末になると「正月を迎える準備」がありますが、全ては「年神様を迎える準備」であり、大掃除にしても、門松・しめ縄を飾る習慣も、年神様へのおもてなしのためです。全ては神様とのつながりで新年の行事が行われています。
キリスト教では毎年、クリスマス(=主の降誕)の折に、神の子イエス・キリストが私たちのうちにお生まれになることを通して、私たちの日々の歩みの中に、神の恵みと平和を満たしていきます。年長が行う『聖劇』の中でも恵みと平和に満たされた羊飼いは神様に賛美をささげる上で出かけて行きます。また三人の博士たちは、神の子誕生の喜びとして「贈り物(黄金・乳香・没薬)」を奉げます。
年末年始にあたり、神さまをお迎えする意識と共に、新年からの日々の歩みが、神への賛美と感謝を込めた奉げものとして、皆様お一人お一人とご家庭が、神の恵みと平和に満たされた新年となりますように。