幼稚園

単なる偶然と見るの?神さまの働きかけと見るの? 2021.4.8

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。(二人の弟子たち)は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ福音20:1~2・6b~9)

 

園 長  佐藤 直樹

上記の福音箇所は、「イエスの復活」についての記述です。イエスの弟子たちが見たのは、十字架刑によって殺されたイエスの遺体を収めた墓が空だった現実と事実です。空の墓を見た現実を通して、弟子たちはイエスが死者のうちから復活した事実を信じていきます。「復活のいのち」と言う信じる者に与えられる「神のいのち」を知る上で、現実を「愛」に照らし、どのように“見る”かで、その現実を事実とする事が出来るかが大切になります。そのためには、①視覚と言う身体の目で見た現実を、②心で思い巡らす反芻の目で見ることによって、③信仰の目でしか見ることが出来ない、神様からの働きかけとして信じたことを事実と受け留めるのです。

 

例えば、先日の天気予報で、首都圏は4週連続で週末の天候が崩れました。4週連続でぐずついた天候となる現実に気象予報士の方も驚いていました。また4週前と言うのは関西の緊急事態宣言が解除されたタイミングでした。この現実を①身体の目で見ると、単なる低気圧が7日間周期でやって来ただけの偶然になります。②心の目で反芻すると、首都圏は緊急事態宣言中で不要不急の外出を避ける必然のタイミングでしたから、「ステイホームするのが“命を守る”行動だよね」と思いを巡らせます。③心の目の理解を信仰の目で見ると、あたかも偶然を装うがごとく、神は天候を崩すことで、物理的に外出に伴う人流を止めようとされているのかも…?「神様は、人間の自らの節制の業と命を守るための愛に基づく行動を通して、日本の新型コロナウィルス終息に報いようとしている!」と信じつつ、そう見た事実を自らの行動の規範とするのです。神の働きかけと感じた時、人は自らの思いを遂げることより、愛に照らした行動を採るようです。「復活のいのち」とは、見て、信じた事の行動を促す原動力でもあるようです。

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 05.14

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。(使徒パウロのローマの信徒への手紙12:15~17)

人として、心の成長をこそ大切に。

園 長  佐 藤  直 樹

この一年間、ほぼ毎朝登園後、子どもたちのいる各保育室を訪れて、子どもたちの様子を見させて戴きました。子どもたち一人ひとりの様子を僅かな時間、毎日、見ているだけでも、明らかに人として、神様のことば(=聖書)に即した心の成長という変化を感じています。

「“〇〇君・ちゃん”と遊べて楽しい」と、お友達と喜びを共有すること。「大丈夫…?」「どうしたの?」と人の悲しみに共感しようとすること。自分のやりたい事よりも、みんなで一緒にやることを大切にしようとする思いを持つこと。威張らないことや、勝っても自慢しないこと。出来ないお友だちを疎んじないこと。自分が悪かったら、謙虚になって「ごめんなさい」を、きちんと言える事や、それを言えたお友達を赦せること。やられたらやり返すような仕返しは絶対にしないこと。「徳の花(=善いことに努める事)」を、この一年間かけて実施したクラスもあり、まさに上記に掲載した『パウロの手紙』は、子どもたちの人としての心の成長の中で実現していきました。

年長組はスミレ幼稚園卒園を迎えます。小学校に進級した際にはミッションスクールに行かない限り、もう「宗教」はありません。だからこそ、この『パウロの手紙』の箇所を、これからも大切に、新しいステージでも、人としての成長をしてくれることを願っています。

 

園長の悲喜こもごも -  2021. 03.03

マタイによる福音書22:35-40 律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

今、もう一度、「自己愛」……正しく自分を愛してみませんか?

園長  佐藤 直樹

『神と人を愛する』こと‼それが一番大事とイエスは語ります。そして、あなたのすぐ傍に見えているその人を愛することが、見えない神をも愛することにもなるようです。そして、イエスは隣人を愛する上で『自分のように』愛することを求めておられます。

二回目の緊急事態宣言が発令された最初の週末の渋谷センター街で、街頭インタビューを受けた複数の若者たちの口から出た言葉が「自分がコロナに罹ったら、罹ったらで仕方ないと思って、ここに出て来ています」でした。個人的に、この言葉に哀しみを感じたのは、利己的な発想でしかないかのような物言いよりも、自分のことを自分自身が愛せていないこと…自分のことを自分自身で大切に思えていないがゆえの「自分がコロナに罹ってもいい」と言う価値観がショックでした。他者に感染を広げない…医療崩壊を起こさないような配慮に取り組む事に意識が向かないのではなく、自分が感染しても構わないから、目先の自分の欲求を満たしたい!と言う刹那的な思いが優先され、己自身が愛し愛される事そのものより勝ってしまっているメンタリティーが都市部の人出を減らせない要因にも繋がっていないでしょうか?

それだけに「自分は大切な存在なのだ!」と己で己を愛することが出来る“自己愛”の内に、イエスの語る『隣人を自分のように愛する』隣人愛や他者の命への尊重と配慮は実現するのでしょう。「自己愛」に満ちた、自分も含めみんなが大切にされていく世の中となるのか?はたまた「利己愛」による、自分の欲するままに行動することで、自分だけでなく、みんなを不幸に繋げる世の中となるのか?コロナ禍の今こそ「隣人愛」の行動と実践がモノを言います!

園長の悲喜こもごも -  2021. 02.04

カンボジアで「一斉保育」の究極に気付かされたこと

園 長   佐 藤  直 樹

2020年1月1日、その時、私はカンボジアのアンコールワットで初日の出を見ていました。昨年末より年始にかけて、カトリック学校や幼稚園の先生方10名とカンボジアのシェムリアップにボランティアの指導司祭として同行したのです。シェムリアップ市街地は賑わいを見ることが出来ますが、町の公立学校では子供たちの生活水準に格差がはっきり見られ、市街地から35㎞離れた村全体がカトリック信者の村の子供たちは、鉛筆削りを見て「何これ??」とキョトンと立ちすくみ…歯ブラシを見ては「んん??」と固まっている状態…つまり、そのようなモノを未だかつて見たことが無いという現実でした。20世紀にポルポト政権が犯した過ちによって、教育者の数が今もって不足し、人々の教育の重要性に関する認識の再構築も道半ばの状況であることが、現地に行って痛感させられました。

行ったその村で日本人にカレースープを振舞われ、子どもたちのところにも器に入ったスープが届いた際、部屋の手前にいた子供たちが奥にいる子どもたちにカレーの入った器をバケツリレーで渡していました。それを最初に戴いた奥側の子どもたちは、自分のものを受け取っても、すぐには食べず、お預け状態……結局、皆の前にカレーの器が並べられて、先生の先唱で食前の祈りを全員で唱えてから戴いていました。先に自分の所にモノが来たからと言って、自分だけが先に食べるのではない。「待つこと」で皆が揃って、皆で戴く「思いやり」…一斉保育の究極って「思いやり」の実現であることを改めて感じた瞬間でした。

園長の悲喜こもごも -  2020. 12.23

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 (ルカによる福音書2章1~7節)

 

クリスマスって何の日?

園 長  佐 藤  直 樹

クリスマスの福音箇所です。三年前にAbemaTVが、ある番組の中で「クリスマスって何?」と言う企画を組んだ際の街頭インタビューでは様々な答えが返ってきていました。一番の珍解答は「イエス・キリストの何か……復活だっけ???」でした。そのインタビュー後、イエス・キリストに倣って生きていく司祭・修道士を目指す若者たち(=神学生)の生活の実態をドキュメントした折に、東京都調布市にあるサレジオ神学院の様子が取材されて紹介されました。当時、神学生の養成担当をしていた私もAbemaTVの取材の際、神学生たちとの朝食の場面で会話を楽しんでいた折に、カメラに向かって「この会話はNGですからカットして下さいね」と頼んだ場面が、ものの見事に使用されたのには、さすがに面喰いました。

「クリスマスって何の日…?」クリスマスは、イエス・キリストが、全ての人を救うために、神の子として、この世界に誕生した事をお祝いする日です。イエス・キリストの誕生日ではありません(子どもたちには、それでいいですが…)。「クリスマスって何の日…?」特に今年は世界中を震撼させた新型コロナウィルスの蔓延とウィルス克服の出口が全く見えない状況…まさに暗闇の状態の中で、いずこかに救いの光明を求めようとした一年の月日だったような気がします。キリスト降誕の出来事が、コロナ禍ゆえに“神と人との絆”を堅く結ぶものとして、また“人と人との絆”が新たに深められる形で、コロナ禍を克服するような“新しい生活様式”と言う救いの時、救いの光明となりますように……

 

園長の悲喜こもごも -  2020. 12.07

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