幼稚園だより
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ福音書2:8~12)」
園長 佐藤 直樹
クリスマス(=イエスの誕生の)直後に、天使が羊飼いたちに救い主の誕生を知らせた場面を載せました。「神の子ともあろう御方が、ごく普通の赤ちゃんの姿で誕生したなんて…!!信じようにも、想像やイメージはつきにくいし、何とも平凡な姿で、しかも家畜小屋で生まれたとは……」と感じつつ、「よくもまあ、羊飼いたちは天使のお告げを、いとも簡単に信じられたものだ」と感心するのは、私だけでしょうか?と言いつつも、日常の中で、子どもたちの些細な笑顔や、その姿のどこかで、何某かの「しるし」を感じている自分もいます。
先日も、朝の自由遊びの折に、一人の子どもが、ブロックで完成させた飛行機を見せてくれましたが、その直後に、彼のそばにいた友だちが「赤色のブロックが欲しいなぁ」とつぶやくと、その子は完成した自分の作品を壊し、赤のブロックを取り出すと「はい、どうぞ」と友だちに譲ってしまったのです。その子は、友だちのニーズ(=必要性)に応えるために、自らのものを惜しまずに与えたという…まさに神様の愛を感じさせられる「しるし」でした。
その僅かな光景に「ハッ!」とさせられた時、「乳飲み子」のような、小さな者の姿を通して示される「しるし」と力強く宣言した天使の言葉の真実を、羊飼いたちが信じられた実感を、少なからず、私自身も追体験した瞬間だったのかもしれません。クリスマスの喜びとは、小さなものの中にこそ感じられる、神様からの大いなる「しるし」を見つけ出す時でもあると思います。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。(ルカ福音書14:28~30)」
園長 佐藤 直樹
今年も、大谷翔平選手のピッチャーとバッターの二刀流をハイレベルで実現させた話題に、明るい気持ちにさせられた方々も多かったと思います。大谷選手の活躍も含め、人々が感銘させられる彼の行動の1つに「ゴミ拾い」があります。プレー中でも、グランドに落ちているゴミをさりげなく拾っては尻ポケットにしまい、プレーを続ける姿には一流のアスリートたるゆえんを感じます。大谷選手のゴミ拾いは花巻東高校時代の野球部、佐々木洋監督の「ゴミは人が落とした運だから、ゴミを拾うことで運を拾う。自分にツキを呼ぶ」と言う教えを、普段の生活態度にまで落とし込み、それを完全に自分のものとしているのです。
この話から教えられる事に、しっかりやり続けることが「本物」になるということです。「本物」とするためには、自分で努力することは求められますが、それを「やり続ける」ことで「自分のもの」にすれば、敢えてひけらかさなくても、それが「さりげなく=普通に」出来るようになっていくのです。そこで、お子様が園で教えられることや身についたものが「本物」になっていく上で、ご家庭でも継続させていくことは確実に求められると思います。上記のイエスのことばも、まさに完成させる上での『腰を据えた』努力だけではなく、「十分な費用」と表現された、十分にやり続けていく上での「継続性」の大切さが指摘されます。イエスが語る『神の国の成長』と、人が『人として成長する』ことには相通じるものがある事を、スミレ幼稚園での幼児教育に触れながら、殊に感じさせられる日々でもあります。
「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる……善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる(マタイ福音書12:33・35)
園長 佐藤 直樹
先日、東京にあるカトリック学校の父親聖書研究会からの依頼を受け、「今だからこそキリスト教の価値観をもって求められる実践を、一緒に考えてみましょう」と言うテーマで講演をしてきました。❶パンデミック、❷戦争、❸自然災害、❹政治家と一宗教団体との絡みや一首相経験者の「国葬」の是非等、世情は混乱と迷走つづきの最中、本来、宗教が果たすべきことって何なのだろう?って、自問自答しているところでしたので、これらの問いに『聖書』を使いながら、ある程度の示唆を参加された方々に提示させていただきました。
こうした問題に不可欠なのが“目に見えない”ものの価値を大切にすることです!
カトリック学校の高校生や大学生たちに「目に見えない大切なものって何?」って質問すると、大方の学生たちは「愛…!?」等、様々に答えてくれますが、皆さまだったら、どのような答えを出しますか???そう言えば、「神さま」そのものも目には見えません!!こうした“目に見えない”ものの価値に目が向けられるようになる上での、幼児期の生活体験や教育的配慮の実践に価値や意味を与えるものこそが、まさしく「宗教」の価値なのです。
スミレ幼稚園がキリスト教カトリックの幼稚園であること。そして「心の教育」を中心に据えている意味はとても大きいです。その具体的なところに「思いやり」、「相手の気持ちを考える」、「親切をすること」や「やさしさを身につける」等の実践は、まさに子どもたち自身が「今だからこそ」、そして「こんな時」だからこそ培うべき、価値ある大切なものです。
あるものを磨けば、「東大」の夢に近づいていくことが出来るかも……
園長 佐藤 直樹
個人的な話で恐縮ですが、コロナ禍に入り、本では『東大謎トレ』とか、テレビでは『東大王』等、東大と言う名前の付いたものにハマっている自分がいます。ただし“東大”と言う言葉の中身が意味しているものが一体、何なのか?に甚だ疑問を持っていました。しかし、謎トレを解き続け、テレビで東大王の学生たちよりも、いかに早く答えを導き出すかをやっているうちに、“東大”と言う言葉の意味する中身の一つが「発想力」であることに行きつきました。早押しクイズのように単なる特化した知識力だけによるのではなく、どのような発想をすることで問題を解くかの発想力にこそ、マスメディアが好んで使っている“東大”と言う言葉のカギでもある事に気付かされたのです。
幼稚園生活の中で、子どもたちは壁面製作や絵画、季節行事の練習等、共通した一つのテーマに取り組む事で、皆が共通の経験をしていきます。共通の経験としての基本を押さえて出来れば、あとはその子どもの「発想力」次第で、それをどのように使いこなすかに掛かってきます。朝の自由遊びの時間にお部屋を回っていると、製作時に習得したことや、切り方・貼り方・描き方、遊具の遊び方等で身についた事を使う姿に出会います。ただ習ったそのままのやり方を続ける楽しみ方ではなく、発想法次第で、それを応用して遊べたものを、「園長先生、見て!」と見せに来てくれる子どもたちもいます。幼児期に遊びを通して身につけるべき大切な事の一つは、「発想力」の引き出しを自分の内に、いかに沢山作れるかでもあることを改めて感じます。
「共に生きる」を、子どもたちの姿勢から……
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。(マタイ福音書5:43~45)」
園長 佐藤 直樹
「きずな」と言う相和私立幼稚園協会発行の機関紙がいずれ、お手元に届くと思います。今回の「きずな」の編集後記にも書きましたが、いよいよアフターコロナの時代に入ろうとする最中、ウィズコロナの姿勢こそがより一層、求められる事となるでしょう。「With=一緒に」とは、つまり「共に」生きなければならない事を指しています。ただし、誰も人に害を与えるコロナウィルスと共に生きたいと思う人などいるはずもありませんが、こればかりは自分たちの一存では如何ともし難い訳です。そこで私たちは、例え共存したくない相手であっても、それを受け容れつつ対応するところで「共に」生きる事は実現します。
子どもたちの幼稚園生活にも、自分が「やりたいこと」「好きなこと」「出来ること」もあれば、「やりたくないこと」「不得意なこと」「やらざるを得ないこと」とも「共に」生きていかなければなりません。こうした得手不得手でさえも、子どもたちは、それらを園生活のやるべきこととして「受け容れ」つつ、きちんと取り組む事によって、自分でも「やれること」「好きにもなれること」「出来ること」にしてしまうのは、まさに己に打ち克つ地道な努力とも「共に」生きようとするからなのでしょう。
コロナ禍に何度となく耳にした「克服」の二文字は、「戦う」事・「抗う」事よりも、「共に」生きていく中で、敢えて己に克つことすら求められる事とも「共に」生きていこうとする中で実現していくのかもしれません。今回のイエス・キリストの福音のことばにも、そんな響きが感じられます。