幼稚園だより
自分自身の成長は、「天の国」の成長とも重なるようです。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイによる福音書13:44)」
園長 佐藤 直樹
新しい年度に入って早や2か月が過ぎようとしています。朝の自由遊びの時間に各保育室を覗きに行くと、年少組の子どもたちは、朝の身支度に自分で取り組む姿が見られます。年中長になると、朝の支度等は早々に終え、やりたい新しい遊び道具に興じる姿、お部屋にある材料を用いて何かを作る姿、友だちと一緒に関わる遊び方など、遊びの仕方一つを取っても、新しい何かに挑戦しているように見受けられます。保育中の製作活動(描く・塗る・切る・貼る等)も学年が上がれば、それなりに複雑な作品製作に取り組む事となります。
NHK番組「チコちゃんに叱られる」の質問の中で、「なんで子供は縁石の上を歩きたがるの?」という質問がありました。チコちゃんの回答は、「限界に挑戦して己の能力を高めるため」という、要は子供が成長するために必要なプロセスだそうです。限界ギリギリに挑戦する事を「フロー体験」と呼びますが、いつもより少し難しい挑戦をすることで快感を得ると言う繰り返しが、成長に繋がるメカニズムとなるようです。
上記『マタイ福音書』にあるイエス・キリストの天の国の喩え話……天国とは隠されていると言います。子どもの新しい事への取り組みや限界への挑戦を通しての成長とは、まさにイエスが語った「天の国」の喩え同様、隠されている秘められた宝ものを見つける事に等しいものかもしれませんね。
「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てる
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイによる福音書7:12)。」
園長 佐藤 直樹
昨年度の三学期、「〇〇ちゃんが、今まで手付かずの状態になっていた生活習慣を、自分からするようになりました」とか、「〇〇君が、小さいお友だちが出来ないところのやり方を教えてあげていました…出来る事が増えて、お兄さんになると、ますます優しくなるものですね」などの話を耳にする機会が、めっぽう増えました。
今まで出来なかった事が出来るようになる喜びは、出来るようになった事が、他の誰かの役に立っていたり、誰かへの「思いやり」や「やさしさ」に繋がったりすると倍増します。それだけに、自分で出来るようになることが増えると言うのは、同時に「思いやり」や「やさしさ」を示す機会も増えていくことになります。
「思いやり」の心や「優しさ」を育てる上で、「出来た!」と言う、自分で何かが出来るようになる喜びを、この時期にたくさんすること。そして出来るようになったことが、何かの役に立っている喜びにつながること、そして他の誰かに喜んでもらえる体験を通して、「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てていくことが大切です。
どこの宗教にも「黄金律」と呼ばれるものがあります。ただし、キリスト教以外の宗教は自分が「してほしくないこと」は、人に「してはいけません」と言うネガティブ表現で記します。自分が「してもらえたら嬉しいこと」を、人に「する」と言うイエスのこのことば……この時期に「出来た!」の幅と、「もっと、もっと人にしたい」と言う幅が大きくなると、この「黄金律」の世界も広がるようです。
「良い実」はプロセスと言う歩みの中で
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 (マタイによる福音書 7:17-20)
園長 佐藤 直樹
年度が終わりに近づくこの時期に、朝、各クラスのお部屋を回っていると、こども達一人一人、自分で出来ることが確実に増えていることに気づかされます。そして、自分のやるべきことを自分でやることの成果を通して、こども達の成長は感じさせられます。
年少クラスでは、スモックや体操服への着替えが普通に出来る。お弁当を出して、カバンを自分の棚に掛けること等、「自分」でする事の生活習慣が身についた部分の成長が顕著です。年中では、朝の自由遊びで作ったものを「園長先生、見て見て!」と見せてくれますし、友だちと一緒に何かをする姿など、自分の事だけではない、「みんな」との関わり方を身につけていく成長が著しいです。年長になると、与えられた朝の自由遊びの時間で、自主的に「何をしたいの…?何をしなければいけないの…?」と言った、「自分に与えられた時間の使い方」、またルールがある遊びなどにも取り組むことで、「みんな」と一緒にいる場所で、「自分に与えられた自由の使い方」が自ずと身についている姿を目の当たりにします。
成長や成果に見られる実りとは、一朝一夕で身につくものではなく、年間を通しての歩みが、いかに大切かを思い知らされます。その歩みのプロセスで求められるのが「関わり」です。どのような「関わり」のプロセスが、こどもの成長の歩みの中で結果的に実るかを、マタイ福音書は「良い実」と「悪い実」として示します。
先日、閉幕した北京オリンピックですが、アスリート達のインタビューを聞いて、全てのアスリート達が支えて下さった方々への感謝を口にしていました。オリンピック出場に至る自身の成果や成長よりも、感謝の言葉が出るのは、アスリート自身に与えられた「関わり」と言うプロセスが、いかに今の「良い実」を結ぶに至ったかを物語っているのでしょう。
いよいよ、“みんなのために自分がする”時代に突入です!
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ福音書15章12~13節)」
園長 佐藤 直樹
オミクロン株による感染者数の爆発的増大が止まらず、10代以下の子どもたちへの感染も12000人を超え(令和4年1月20日現在)、日本各地で幼稚園や保育園の臨時休園も相次いでいます。
先日のニュースで、休園に追い込まれた園の園長が「今までの(コロナ対策の)やり方では通用しません」と今回の変異株の脅威を語っていました。この言葉を耳にした時、私自身「あのインタビューの言葉は、対オミクロンの件に限った事ではなく、アフターコロナの時代になった時、ありとあらゆる分野で求められてくる対応だろう」と思わされました。その一つとして、今までのコロナ対策にも求められていた姿勢としての、「自分自身の命を守る」「大事な人の命を守る」と言う従来の考え方や価値観だけでは通用しなくなったと言えるのかもしれません。
それだけに、今年度の目標として掲げた「自分ですること」「みんなですること」はコロナ対策を実践する大前提としても、“みんなのために自分がする”とした三学期の目標を通して、目的や意味(「ため」)と、誰がそれを主体的に「する」のかを、はっきりさせることで、今までのやり方を超える実践を通して、第6波の終息に貢献できればと思います。では、“みんなのために自分がする”事で、一番のものとは何でしょうか?それこそ、スミレ幼稚園が最も大切にしている「思いやり」に他なりません。
上記のイエスのことばも、お互いに自分が「愛する」ことを通して、目的としての神の愛が私たちの間に実現します。
アフターコロナの時代とは、「みんなのために、自分がする」時です。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15:13)
園長 佐藤 直樹
10月、東京のあるカトリック幼稚園から、保護者会主催の『講演』依頼を受けました。後日、その幼稚園のHP内にある保護者サイトに掲載されると言うことで、その収録を、先日してきたのです。先方からは『アフターコロナに求められる親子関係について』と言う壮大なテーマを頂戴し、当初は「そのテーマに答えがあるならば、そんなの既に皆、実行しているよォ」と言う弱音を漏らしつつも、収録当日は、『イエスを信じる一介の神父に映った、コロナ禍を通して気付かされたこと!~ウィズコロナの中で、親子の関わりが目指していくことを、福音を通して考えて見る~』と題して、あれよあれよと1時間15分近くも喋った自分がいました。
さて皆さんは、アフターコロナの人間社会は、どのようになると思われますか?コロナ禍にあった、この二年余り、「緊急事態宣言」と言う言葉一つを取り上げても、人それぞれが宣言の意味する捉え方や意識の相違によって、「命を守るための行動」だけでも「する・しない」で、ほぼ二極化しました。それを目の当たりにしただけでも、今後、ますます、❶.「協力(みんなで…)」が進むか?❷.「個人(その人だけ…)」が助長されるか?の二極化!だろうと私自身は推測しています。特に「する・しない」は、子どもたちの「命を守るための行動」として、将来の環境をも左右する「地球温暖化対策」や「SDGsへの取り組み」方に、この二極化は如実に表れてくるものと思われます。
スミレ幼稚園での三学期のテーマは「みんなのために、自分がすること」です。自分がすることで、自分のためになるよりも、自分自身を含めた「みんな」のために繋がる取り組みや実践の大切さ…。年度初めの折は、コロナ禍ゆえに掲げたテーマではありましたが、今になり、ウィズコロナの中で親子の関わりが目指していくことも、スミレ幼稚園の目指す「心の教育」の集大成としても、この三学期のテーマは、とても大切な意味を持つものと感じられてなりません。