幼稚園

「見て!」「来て!」と「見に来て…」では、全然、違います。  

 園長  佐藤 直樹

登園後、朝の自由遊びの時間に各お部屋を見に行くと、年中長では、子どもたちから近づいて来るや「園長先生、これ見て!」と言われ、その日、作った工作や塗り絵・折り紙などの作品を、誇らしげに見せてくれます。また「園長先生、来て!」と、手を引かれて行くと、自分たちが夢中に遊んでいた遊びを、プライドをもって見せてくれます。年少さんの一人のお友だちからは、「来て」と手を引かれて行くと、自分で制服からスモックに着替えられるところを披露してくれました。

「園長先生、見に来てぇ…」と彼方から言われ、私自身のイニシャティブで見に行くことと、子ども自らが主体的に「園長先生、見て!」「園長先生、来て!」と意思をもって、こちらに動き、そのものを見せられるのとでは、その持っている本質が全然、違います。

お家生活ならば、「お父さん・お母さん、これして、あれやって」の、お願い事をされた際に、子ども自身が主体的に動いて、保護者の皆さんのところにお願いに来るか、それとも、願う子どもの元に親の方が動いてしまっているか。つまり、お願いを行動で「する」子どもの主体性なのか…、それとも、お願い「される」親の主体性なのかの、大きな違いです。

高濱正伸氏監修の著書の中でも「用事があるなら、自分から動こう」とあります。おそらく、自分の思いや願いを遂げる上で、親や大人を動かす事ではなく、大人の所に「自分から動いて」、その思いや願いを持ってくる行動に「主体性」という言葉の本質を感じています。

園長の悲喜こもごも -  2023. 07.11

たかが「登園」・されど「登園」!

園長  佐藤 直樹

先週、東京にある私立小学校の校長先生と話しをした折に、チャレンジを抱えた小学校三年生についての話を伺いました。その子は未だ、母親無しでは登校できず、しかも昇降口まで見送らないと校舎にも入れず仕舞いと言うのです。更に母親の手を離れる折には涙目で「行ってきます」と寂しげに言うと、母親自身も、しばしのお別れに涙ぐんでいるそうです。

先日、学年で合宿に行った折には、合宿先にて四六時中ホームシックで泣き止まず、「お母さんの作ってくれたものでなければ食べられない」と食事も喉を通らずに断食したそうです。その話を伺い、思わず「うちの年少さんの今の状況と似ていますね」と言うと、校長先生から一言…「それは年少さんでしょう……うちは、もう三年生のはずですから…」。

スミレ幼稚園では、登園時に今、泣いている年少さんも、少しずつ笑顔で登園するようになります。年中・年長はあたかも当然のように、自分から主体的に「おはようございます」「行ってきます」と挨拶すると、実際に自ら親の手を離し、自分で靴を履き替え、自分自身の足で立って園舎の中へ歩いていきます。まさに子どもながらに「自立」を果たす瞬間です。

「主体的に」+「自ら」+「自分の歩むべき所に向かい」+「(行動)する」と言う、「自立」の一連のプロセスが、朝の登園の中には秘められています。

園長の悲喜こもごも -  2023. 06.07

「徳の花」は意識させることから…

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そしてザカリアの家に

入ってエリサベトに挨拶した」(ルカによる福音書1章39~40節)

園長 佐藤 直樹

カトリック教会では、5月を「聖母マリアの月」としています。スミレ幼稚園でも、神の子イエス様を産み育んだ、みんなのお母さんとして、マリア様を讃える「マリア祭」を行います。マリア祭当日は、生花を奉げながらも、生花に込めている中身とは、「善い行い」の実践である「徳」を奉げています。「善い行い=徳」の実践内容は、それぞれ学年に応じて求められるものに違いがあっても、「思いやり」「やさしさ」「親切」等、キリスト教が最も大切にしている「愛の実践」を基本としています。

「躾」同様、美徳の価値を習慣化する上で、先ずは意識化させる事が大切です。そのためには、“正しいことや善いこと”とは、何をすることなのか?が教えられることは大切です。その上で、子ども自身が「お友だちに〇〇が出来た!」「お父さん、お母さんのお手伝いをしたよ!」「先生のお話しを、しっかり聞いたよ」と、他の人に“喜んでもらえる”経験や自分が“誰かのお役に立てた”喜びの体験を積み重ね、それを自身の言葉で言えるようになると、「徳の花」の実践が、まさに意識されるようになっていることが分かります。

マリア様自身がイエス様を身ごもっていながら、高齢出産を控えた、親戚のエリザベトのお世話へと自分自身を向けました。マリア様の美徳は、「自分がすること」で、他者が「笑顔でいられる」喜びを、神様への奉げものとしたことです。マリア様の心に倣い、子どもたちが“徳の花”を「自分がすること」によって、“思いやり”の実践を習慣化していけることを願ってやみません。

園長の悲喜こもごも -  2023. 05.11

「心を育てる」教育が、スミレ・スタイル

園長  佐藤 直樹

スミレ幼稚園はキリスト教カトリックの幼稚園として、イエス・キリストの生涯の中に示された福音の精神に基づき、「心の教育」を大切にしている幼稚園です。「心を育てていく」上では、先ず神様から「僕も・私も大切に思われている」ことが感じられていくこと。そして、自分が神様から愛されていることを、お友だちや先生方への「思いやり」・「親切」・「やさしさ」の具体的行動で示していくことや、「いいよ」「はい、やります」「これ、どうぞ」「ありがとう」等の言葉で伝えるという、「徳」の実践を通して、子どもたちの「心」を育くんでいく事を目指しています。

新年度が始まり、子どもたちは幼稚園生活を通して、年齢に応じた基本的な生活スタイルや、生活に必要な物事を「みんなの中で」「みんなと一緒に」身につけていきます。「着替えること」、「食べること」、「時間に合わせて行動すること」、「お約束を守ること」等、身の周りの事を自分ですることが出来るとは、実は、身の周りのお友だちの幼稚園生活そのものを尊重している事にもなると言う、「美徳」としての心を育むことに意識の目を向けていく事が肝要ではないかと思います。

全ての事に言えるかもしれませんが、単に「スタイル」が良くても、「心」が無い・「中身」が伴わない見掛け倒しには虚しさを感じますね。それだけにスミレ幼稚園では、キリスト教が大切にしている「愛徳」をもって「心」を大切にするのは、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えない(サン=テグジュペリ著『星の王子さま』)」からです。

 

園長の悲喜こもごも -  2023. 04.14

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(ルカ5章38節)

園長  佐藤 直樹

先日、隣接するカトリック教会の教会委員長から、「3月からコロナ禍に制限されていた様々なものが緩和されていきますけど、今後について、どのようなお考えを持っていますか?」と言う方向性を尋ねられたので、「“コロナ前に”とか、“コロナ以前は”と言う言い回しの中で元に戻していこうとする考え方がありますけど、この三年間は様々なものが壊され、考え方や価値観だけでなく、人との繋がりや関わり方も含めて変えられた事がたくさんあるだけに、元に戻すや回顧するのではなく、アップデートする、リニューアルを通して『新しく創る』メンタリティーで、これからを始めていきませんか?」と答えました。

子どもたちも、この三年間、様々な行動制限の中での保育活動に預かってきました。特に今の年長は、まさにコロナ禍学年です。常に「感染拡大で、いつどうなるか?」が付きまとっていましたので、今と言う時に精一杯やる園生活を非常に大切にしてきたと思います。特に行事や製作活動を、みんなで達成する、完成するための「一致」や「協力する」姿に顕著だったと思います。また、「みんながコロナにならないように」と、周りのお友だちや家族、先生方などへの思いやりや配慮というやさしさの心が、たかがマスクですが、されどマスク生活の中でも育ったように感じられました。

そんなパンデミックと言う苦境の時に、まさに苦労を、みんなで人一倍したからこそ育った、子どもたちの心の成長の糧を、単にコロナ禍以前に戻すのではなく、より良くアップデートし、今後も「共に生きていくこと」の大切さや、「みんなのために、自分がする」と言う思いやりの気持ちをリニューアルしていかなくて、どうしましょうか!

園長の悲喜こもごも -  2023. 03.13

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