幼稚園

カンボジアで「一斉保育」の究極に気付かされたこと

園 長   佐 藤  直 樹

2020年1月1日、その時、私はカンボジアのアンコールワットで初日の出を見ていました。昨年末より年始にかけて、カトリック学校や幼稚園の先生方10名とカンボジアのシェムリアップにボランティアの指導司祭として同行したのです。シェムリアップ市街地は賑わいを見ることが出来ますが、町の公立学校では子供たちの生活水準に格差がはっきり見られ、市街地から35㎞離れた村全体がカトリック信者の村の子供たちは、鉛筆削りを見て「何これ??」とキョトンと立ちすくみ…歯ブラシを見ては「んん??」と固まっている状態…つまり、そのようなモノを未だかつて見たことが無いという現実でした。20世紀にポルポト政権が犯した過ちによって、教育者の数が今もって不足し、人々の教育の重要性に関する認識の再構築も道半ばの状況であることが、現地に行って痛感させられました。

行ったその村で日本人にカレースープを振舞われ、子どもたちのところにも器に入ったスープが届いた際、部屋の手前にいた子供たちが奥にいる子どもたちにカレーの入った器をバケツリレーで渡していました。それを最初に戴いた奥側の子どもたちは、自分のものを受け取っても、すぐには食べず、お預け状態……結局、皆の前にカレーの器が並べられて、先生の先唱で食前の祈りを全員で唱えてから戴いていました。先に自分の所にモノが来たからと言って、自分だけが先に食べるのではない。「待つこと」で皆が揃って、皆で戴く「思いやり」…一斉保育の究極って「思いやり」の実現であることを改めて感じた瞬間でした。

聖書のおことば -  2020. 12.23

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 (ルカによる福音書2章1~7節)

 

クリスマスって何の日?

園 長  佐 藤  直 樹

クリスマスの福音箇所です。三年前にAbemaTVが、ある番組の中で「クリスマスって何?」と言う企画を組んだ際の街頭インタビューでは様々な答えが返ってきていました。一番の珍解答は「イエス・キリストの何か……復活だっけ???」でした。そのインタビュー後、イエス・キリストに倣って生きていく司祭・修道士を目指す若者たち(=神学生)の生活の実態をドキュメントした折に、東京都調布市にあるサレジオ神学院の様子が取材されて紹介されました。当時、神学生の養成担当をしていた私もAbemaTVの取材の際、神学生たちとの朝食の場面で会話を楽しんでいた折に、カメラに向かって「この会話はNGですからカットして下さいね」と頼んだ場面が、ものの見事に使用されたのには、さすがに面喰いました。

「クリスマスって何の日…?」クリスマスは、イエス・キリストが、全ての人を救うために、神の子として、この世界に誕生した事をお祝いする日です。イエス・キリストの誕生日ではありません(子どもたちには、それでいいですが…)。「クリスマスって何の日…?」特に今年は世界中を震撼させた新型コロナウィルスの蔓延とウィルス克服の出口が全く見えない状況…まさに暗闇の状態の中で、いずこかに救いの光明を求めようとした一年の月日だったような気がします。キリスト降誕の出来事が、コロナ禍ゆえに“神と人との絆”を堅く結ぶものとして、また“人と人との絆”が新たに深められる形で、コロナ禍を克服するような“新しい生活様式”と言う救いの時、救いの光明となりますように……

 

聖書のおことば -  2020. 12.07

「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」(ルカによる福音書11章39~41節) 

この福音の箇所は、神の子としてイエス様の事を受け入れなかったファリサイ派というユダヤ教の一グループに対し語られたイエス様の非難の言葉の一部です。

かつて教会の青年たちに対して、よく話していた話ですが「僕は皆が、どんな思いを持っているかは見えないし、皆も僕が、どんな思いを持っているかなんて見えないよね。思いそのものは見えないけれども、見えない思いって『やる』と言う行動や実践が伴った時に見える形で現わされてくるのだよね……だからこそ『思いやる』って言うでしょう。それだけに、『思いやる』って、見えない、あなたの優しい『思い』を、目に見える『やる』と言う形や行動で実現することが『思いやり』なのです。」と話してきました。

イエス様も大切な事は「器の中にある物を人に施せ」と言います。つまり、私が何を相手に差し出すのか…他者に分かち合う実践という見える行動を通して、私の内(側)に持っているものが善いものか・悪いものかを歴然と判別させます。また、私自身が自分のとる行動を見た時、あなたの内情が今、どのような状態なのかも見えてくると言うのです。

イエス様が仰る「器の中にある物」…それは、私の「内にあるもの」です。上っ面な部分を綺麗にすることに終始することなく、私の「善き」行動や実践・人との関わり方が、あなた自身そのものを内側から醸し出すようなものとなりますように。

園長 佐藤直樹

聖書のおことば -  2020. 11.06

「誠実さ」…それが、一番大事!

五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ25章20節~23節)

園長 佐藤直樹

この福音の箇所は、通常「タラントン(=イエス様の時代の通貨単位)の喩え話」として語られている話の一部分を抜粋しました。五タラントン・二タラントン・一タラントンを三人の僕たちは各々、主人から預かり、預かったタラントンについての報告をした場面です。

『宗教』の授業で、この喩え話を学生たちにする度ごとに必ずこの質問を投げかけます。「キリスト教の神様って、あなたの人生の何をご覧になるか分かる?」って……。多くの日本人は閻魔大王のイメージが強いようで「どれくらい善いことをしたのか?どれくらい悪いことをしたのか?を見て、善いことをした人は極楽往生が出来、悪いことをした人は地獄に行く」と言う因果応報的なニュアンスの答えがとても多い印象に見受けられます。

キリスト教の神様がご覧になるのは、いかに「善いことをした・悪いことをした」ではなく“忠実さ”です。いかに自分が戴いたものに対して「誠実」であるかをご覧になることが、上記の福音箇所の主人の言葉からも理解できます。私たちが神様から戴いたタラントン(=贈り物)とは、いのち、人生、才能、家族や友人、仕事や余暇、身体や健康、時間や機会、お金や財産、成功や失敗・挫折、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、約束や誓いなど、与えられた環境や様々な出来事も含め、全ては神様から戴いて、私自身が預かったタラントンです!神様の視点は、私の戴いたものに対する忠実さ…誠実さが求められています。それだけに、スミレ幼稚園の姿勢や見方も、それが「善いか・悪いか」ではなく、「それが誠実なのか否か」でもあると思っています。

 

聖書のおことば -  2020. 10.14

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネによる福音書12章24~25節)

自分の命を真に「愛する」とは、自分の命を使うという「捨て方」が出来ること。

園長  佐 藤  直 樹

最近、「コロナウィルスって、よく出来ているなぁ~」と不謹慎な物言いですが、感心せざるを得ないことがあります!なぜなら、全ての人が心と思いを一つにし、皆で感染予防と言う共通善に取り組む姿勢で予防策を実践した時に感染拡大が抑えられたのです。だから、誰一人「無関心」を装う事も、「自分くらいは、やらなくても大丈夫」等の甘えが全く通用せず、「自分がそれをしなければ」防げないのです。そして自分の事ではなく、他者の命を尊重する行動を取った時にも、感染は広がっていません。それが今回、お盆期間中の帰省や外出自粛と言う形を通して、自分の「やりたい・したい」思いや望みを一先ず置いて、他者の命を守る行動をもって現わされました。つまり、コロナウィルス感染が拡大か抑制かについての凄いところは、一人一人の「自分自身の使い方」によると言う事です。

イエス様も永遠の命にまで至る命の在り方を、この福音箇所で語っています。いつも「自分」・「自分の思い・願い」・「自分のしたい事・やりたい事」ばかりにだけ終始し、自分の為だけに自分を使おうとする人は、自分の命を失う事になると……。それよりも、この世で自分自身を使う事によって、自分に死ぬことが出来る人、他者の命に思いを寄せ、それを守るが為に、自分の命すら惜しまず使って奉げられる人が、逆に永遠の命を勝ち取ると……。

このコロナ禍で、それでも「自分のやりたい事」をしようと、そのために自分を使う人もいれば……、だからこそ「自分よりも、他を尊重する事こそが肝要」として、自分を捨てて奉げられる人もいます。

 

聖書のおことば -  2020. 08.27

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