幼稚園

「共に生きる」を、子どもたちの姿勢から……

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。(マタイ福音書5:43~45)」

園長 佐藤 直樹

「きずな」と言う相和私立幼稚園協会発行の機関紙がいずれ、お手元に届くと思います。今回の「きずな」の編集後記にも書きましたが、いよいよアフターコロナの時代に入ろうとする最中、ウィズコロナの姿勢こそがより一層、求められる事となるでしょう。「With=一緒に」とは、つまり「共に」生きなければならない事を指しています。ただし、誰も人に害を与えるコロナウィルスと共に生きたいと思う人などいるはずもありませんが、こればかりは自分たちの一存では如何ともし難い訳です。そこで私たちは、例え共存したくない相手であっても、それを受け容れつつ対応するところで「共に」生きる事は実現します。
子どもたちの幼稚園生活にも、自分が「やりたいこと」「好きなこと」「出来ること」もあれば、「やりたくないこと」「不得意なこと」「やらざるを得ないこと」とも「共に」生きていかなければなりません。こうした得手不得手でさえも、子どもたちは、それらを園生活のやるべきこととして「受け容れ」つつ、きちんと取り組む事によって、自分でも「やれること」「好きにもなれること」「出来ること」にしてしまうのは、まさに己に打ち克つ地道な努力とも「共に」生きようとするからなのでしょう。
コロナ禍に何度となく耳にした「克服」の二文字は、「戦う」事・「抗う」事よりも、「共に」生きていく中で、敢えて己に克つことすら求められる事とも「共に」生きていこうとする中で実現していくのかもしれません。今回のイエス・キリストの福音のことばにも、そんな響きが感じられます。

園長の悲喜こもごも -  2022. 07.06

自分自身の成長は、「天の国」の成長とも重なるようです。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイによる福音書13:44)」

園長 佐藤 直樹

新しい年度に入って早や2か月が過ぎようとしています。朝の自由遊びの時間に各保育室を覗きに行くと、年少組の子どもたちは、朝の身支度に自分で取り組む姿が見られます。年中長になると、朝の支度等は早々に終え、やりたい新しい遊び道具に興じる姿、お部屋にある材料を用いて何かを作る姿、友だちと一緒に関わる遊び方など、遊びの仕方一つを取っても、新しい何かに挑戦しているように見受けられます。保育中の製作活動(描く・塗る・切る・貼る等)も学年が上がれば、それなりに複雑な作品製作に取り組む事となります。

NHK番組「チコちゃんに叱られる」の質問の中で、「なんで子供は縁石の上を歩きたがるの?」という質問がありました。チコちゃんの回答は、「限界に挑戦して己の能力を高めるため」という、要は子供が成長するために必要なプロセスだそうです。限界ギリギリに挑戦する事を「フロー体験」と呼びますが、いつもより少し難しい挑戦をすることで快感を得ると言う繰り返しが、成長に繋がるメカニズムとなるようです。

上記『マタイ福音書』にあるイエス・キリストの天の国の喩え話……天国とは隠されていると言います。子どもの新しい事への取り組みや限界への挑戦を通しての成長とは、まさにイエスが語った「天の国」の喩え同様、隠されている秘められた宝ものを見つける事に等しいものかもしれませんね。

園長の悲喜こもごも -  2022. 06.07

「徳の花」をお奉げする

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そしてザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(ルカによる福音書1章39~40節)

園長 佐藤 直樹

5月、カトリック教会では「聖母マリアの月」となっています。そのため、スミレ幼稚園でも、神の子イエス様を産み育んだ、みんなのお母さんとして、マリア様を讃える「マリア祭」を行います。その際、生花を奉げながら、同時に私たちの「善い行い」の実践としての「徳の花」を、毎年、お奉げしています。

「善い行い」としての「徳の花」の実践的な中身は、それぞれ年齢に応じて、子どもたちに求められるものが異なります。しかし、「思いやり」「やさしさ」「親切」等、キリスト教が最も大切にしている美徳である「愛の実践」が求められる行いが根底にあります。

善いこと・悪いことの判断、道徳、正しいこと・正しくないこと等の「躾」につながる、人としての美徳の価値が習慣化する時とは、子どもが小さい時に教えられれば教えられるほど、吸収し易いもののようです。「物心ついてから教えていく方が…」と思われがちですが、その時に教えようと思われる時には、かなりの労力を要すると思います。

マリア様は、自身がイエス様を身ごもっていたにも関わらず、高齢出産を控えた、親戚のエリザベトのお世話に向かいました。マリア様の美徳は、他者と共に生きる上で、自分の方から「誰かのお役に立てる」行動と、他者に「喜んでもらえる」実践を、神様への捧げものとしています。マリア様の心に倣って、子どもたちが「徳の花」を意識しながら、進んで「善い行い」に取り組んでいけることを願っています。

園長の悲喜こもごも -  2022. 05.17

「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てる

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイによる福音書7:12)。」

園長  佐藤 直樹

昨年度の三学期、「〇〇ちゃんが、今まで手付かずの状態になっていた生活習慣を、自分からするようになりました」とか、「〇〇君が、小さいお友だちが出来ないところのやり方を教えてあげていました…出来る事が増えて、お兄さんになると、ますます優しくなるものですね」などの話を耳にする機会が、めっぽう増えました。

今まで出来なかった事が出来るようになる喜びは、出来るようになった事が、他の誰かの役に立っていたり、誰かへの「思いやり」や「やさしさ」に繋がったりすると倍増します。それだけに、自分で出来るようになることが増えると言うのは、同時に「思いやり」や「やさしさ」を示す機会も増えていくことになります。

「思いやり」の心や「優しさ」を育てる上で、「出来た!」と言う、自分で何かが出来るようになる喜びを、この時期にたくさんすること。そして出来るようになったことが、何かの役に立っている喜びにつながること、そして他の誰かに喜んでもらえる体験を通して、「もっと、もっと、喜んでもらえることをしたい!」という気持ちを育てていくことが大切です。

どこの宗教にも「黄金律」と呼ばれるものがあります。ただし、キリスト教以外の宗教は自分が「してほしくないこと」は、人に「してはいけません」と言うネガティブ表現で記します。自分が「してもらえたら嬉しいこと」を、人に「する」と言うイエスのこのことば……この時期に「出来た!」の幅と、「もっと、もっと人にしたい」と言う幅が大きくなると、この「黄金律」の世界も広がるようです。

園長の悲喜こもごも -  2022. 04.21

「良い実」はプロセスと言う歩みの中で

そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 (マタイによる福音書 7:17-20)

園長  佐藤 直樹

年度が終わりに近づくこの時期に、朝、各クラスのお部屋を回っていると、こども達一人一人、自分で出来ることが確実に増えていることに気づかされます。そして、自分のやるべきことを自分でやることの成果を通して、こども達の成長は感じさせられます。

年少クラスでは、スモックや体操服への着替えが普通に出来る。お弁当を出して、カバンを自分の棚に掛けること等、「自分」でする事の生活習慣が身についた部分の成長が顕著です。年中では、朝の自由遊びで作ったものを「園長先生、見て見て!」と見せてくれますし、友だちと一緒に何かをする姿など、自分の事だけではない、「みんな」との関わり方を身につけていく成長が著しいです。年長になると、与えられた朝の自由遊びの時間で、自主的に「何をしたいの…?何をしなければいけないの…?」と言った、「自分に与えられた時間の使い方」、またルールがある遊びなどにも取り組むことで、「みんな」と一緒にいる場所で、「自分に与えられた自由の使い方」が自ずと身についている姿を目の当たりにします。

成長や成果に見られる実りとは、一朝一夕で身につくものではなく、年間を通しての歩みが、いかに大切かを思い知らされます。その歩みのプロセスで求められるのが「関わり」です。どのような「関わり」のプロセスが、こどもの成長の歩みの中で結果的に実るかを、マタイ福音書は「良い実」と「悪い実」として示します。

先日、閉幕した北京オリンピックですが、アスリート達のインタビューを聞いて、全てのアスリート達が支えて下さった方々への感謝を口にしていました。オリンピック出場に至る自身の成果や成長よりも、感謝の言葉が出るのは、アスリート自身に与えられた「関わり」と言うプロセスが、いかに今の「良い実」を結ぶに至ったかを物語っているのでしょう。

 

園長の悲喜こもごも -  2022. 03.10

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