幼稚園だより
「心を育てる」教育が、スミレ・スタイル
園長 佐藤 直樹
スミレ幼稚園はキリスト教カトリックの幼稚園として、イエス・キリストの生涯の中に示された福音の精神に基づき、「心の教育」を大切にしている幼稚園です。「心を育てていく」上では、先ず神様から「僕も・私も大切に思われている」ことが感じられていくこと。そして、自分が神様から愛されていることを、お友だちや先生方への「思いやり」・「親切」・「やさしさ」の具体的行動で示していくことや、「いいよ」「はい、やります」「これ、どうぞ」「ありがとう」等の言葉で伝えるという、「徳」の実践を通して、子どもたちの「心」を育くんでいく事を目指しています。
新年度が始まり、子どもたちは幼稚園生活を通して、年齢に応じた基本的な生活スタイルや、生活に必要な物事を「みんなの中で」「みんなと一緒に」身につけていきます。「着替えること」、「食べること」、「時間に合わせて行動すること」、「お約束を守ること」等、身の周りの事を自分ですることが出来るとは、実は、身の周りのお友だちの幼稚園生活そのものを尊重している事にもなると言う、「美徳」としての心を育むことに意識の目を向けていく事が肝要ではないかと思います。
全ての事に言えるかもしれませんが、単に「スタイル」が良くても、「心」が無い・「中身」が伴わない見掛け倒しには虚しさを感じますね。それだけにスミレ幼稚園では、キリスト教が大切にしている「愛徳」をもって「心」を大切にするのは、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えない(サン=テグジュペリ著『星の王子さま』)」からです。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(ルカ5章38節)
園長 佐藤 直樹
先日、隣接するカトリック教会の教会委員長から、「3月からコロナ禍に制限されていた様々なものが緩和されていきますけど、今後について、どのようなお考えを持っていますか?」と言う方向性を尋ねられたので、「“コロナ前に”とか、“コロナ以前は”と言う言い回しの中で元に戻していこうとする考え方がありますけど、この三年間は様々なものが壊され、考え方や価値観だけでなく、人との繋がりや関わり方も含めて変えられた事がたくさんあるだけに、元に戻すや回顧するのではなく、アップデートする、リニューアルを通して『新しく創る』メンタリティーで、これからを始めていきませんか?」と答えました。
子どもたちも、この三年間、様々な行動制限の中での保育活動に預かってきました。特に今の年長は、まさにコロナ禍学年です。常に「感染拡大で、いつどうなるか?」が付きまとっていましたので、今と言う時に精一杯やる園生活を非常に大切にしてきたと思います。特に行事や製作活動を、みんなで達成する、完成するための「一致」や「協力する」姿に顕著だったと思います。また、「みんながコロナにならないように」と、周りのお友だちや家族、先生方などへの思いやりや配慮というやさしさの心が、たかがマスクですが、されどマスク生活の中でも育ったように感じられました。
そんなパンデミックと言う苦境の時に、まさに苦労を、みんなで人一倍したからこそ育った、子どもたちの心の成長の糧を、単にコロナ禍以前に戻すのではなく、より良くアップデートし、今後も「共に生きていくこと」の大切さや、「みんなのために、自分がする」と言う思いやりの気持ちをリニューアルしていかなくて、どうしましょうか!
「行事」が本来、持っている尊い価値
園長 佐藤 直樹
先日、三年振りにスミレ幼稚園で「お餅つき」が行われ、子どもたちの口々から「楽しかった」の喜びがこだましていました。思えば社会も、この一年は季節行事や、地域の伝統行事やお祭り等が、やっと再開した声を耳にもしました。スミレ幼稚園でも、親子遠足や水遊びも再開しましたね。それだけに、テレビのインタビューで、コロナ禍に学生時代を過ごした若者たちは「修学旅行に行けなかったことが残念で仕方なかったです」「学園祭を出来なったのが、とても悲しかった」と、実施されるはずの行事が無くなった口惜しさを滲ませていました。そこには「行事」が、本来、持っている尊い価値の体験を青春時代に逃すと言う口惜しさの現われなのだと思います。
行事というのは、イベントそのものに価値があると言うより、行事に関る苦労や、やり遂げる達成感を通して、人と人との「和」や「一致」を深めつつ、人間関係や互いのつながりを成長させる喜びに導いてくれています。その行事に欠かせないのが「協働」作業です。そして「協働」作業に求められる精神こそ、まさに「みんなのために、自分がする」という心です。「みんなを笑顔にする」「みんなの心が喜びに満ち溢れる」と言う、この感覚は、自分以外の誰かに対して、何某かの「協力」や「働き」が出来た時に生まれてきます。それだけに、今度の「作品展」……「協働」と言う、クラス作品や学年作品が出て来るかもしれません。
コロナ禍で三密を避けるために、幾多の行事が中止となり、ソーシャルディスタンスと言う間隔観は、人とのつながりや絆をも傷つけたように感じます。種々の行事が本来、まさに持っている、協働作業による、人と人とをつなげる、本来の尊い価値を通して、子どもたちも、お友だちとの関係性やつながりを深めていく三学期となりますように。
「みんなのために、自分がすること」
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ福音書15:13)
園長 佐藤 直樹
園庭遊びを見に行った折に、「園長先生、見て!」と声を掛けられた時、その子は「逆上がり」を見せてくれました。それ以前は逆上がりが、なかなか出来ずに、外遊びの際に必ず練習に励んでいたことを知っていたので、「出来るようになったんだね!」と、こちらも喜ぶと、嬉しそうに頷いていました。
物事を習得するためには努力することが欠かせません。ただし、努力を続けるには忍耐も求められます。諺に「惚れて通えば千里も一里(好きな人に会いに行く時は、どんなに遠い距離であっても、近くに感じられ、全く苦労と思わない)」があります。つまり、「好き」でいることが努力を続けられる大切なポイントのようです。だからこそ、「好きこそ物の上手なれ(好きな事にはおのずと熱中できるから、上達が早いものだ)」とも言われるのです。主体性を大事にするモンテッソーリ教育が「好き」を追及させていく所以には、こうした理由があるからかもしれません。
三学期の主題は「みんなのために、自分がすること」です。自分で出来るようになったことを、みんなのためにしていくことや、みんなのためになることを、自分から進んでやっていくことを主眼に置く、まとめの学期となります。こうした心がけの実践は、一朝一夕で身につくものではなく、努力も求められます。こうした誰かのお役に立てる喜びを「好き」になってくれる子どもを育てていくことが、「心の教育」を大切にしている、スミレ幼稚園が目指していることでもあるのです。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ福音書2:8~12)」
園長 佐藤 直樹
クリスマス(=イエスの誕生の)直後に、天使が羊飼いたちに救い主の誕生を知らせた場面を載せました。「神の子ともあろう御方が、ごく普通の赤ちゃんの姿で誕生したなんて…!!信じようにも、想像やイメージはつきにくいし、何とも平凡な姿で、しかも家畜小屋で生まれたとは……」と感じつつ、「よくもまあ、羊飼いたちは天使のお告げを、いとも簡単に信じられたものだ」と感心するのは、私だけでしょうか?と言いつつも、日常の中で、子どもたちの些細な笑顔や、その姿のどこかで、何某かの「しるし」を感じている自分もいます。
先日も、朝の自由遊びの折に、一人の子どもが、ブロックで完成させた飛行機を見せてくれましたが、その直後に、彼のそばにいた友だちが「赤色のブロックが欲しいなぁ」とつぶやくと、その子は完成した自分の作品を壊し、赤のブロックを取り出すと「はい、どうぞ」と友だちに譲ってしまったのです。その子は、友だちのニーズ(=必要性)に応えるために、自らのものを惜しまずに与えたという…まさに神様の愛を感じさせられる「しるし」でした。
その僅かな光景に「ハッ!」とさせられた時、「乳飲み子」のような、小さな者の姿を通して示される「しるし」と力強く宣言した天使の言葉の真実を、羊飼いたちが信じられた実感を、少なからず、私自身も追体験した瞬間だったのかもしれません。クリスマスの喜びとは、小さなものの中にこそ感じられる、神様からの大いなる「しるし」を見つけ出す時でもあると思います。