幼稚園だより
クリスマスに向けた「カード」を、毎年見ながら。
園 長 佐 藤 直 樹
神様であるイエス様の誕生を、お祝いするプレゼントとして、スミレ幼稚園では生活の中で、ささやかながら自分に出来ることを、保護者の皆様と共に考える「カード」があります。毎年、窓に貼ってあるカードを眺め、カードに書いてある内容を読んだときに、クリスマス献金をお奉げする上で、子どもたち自身が「こうする!」と決めた行動実践の思いを、保護者の皆様も、その意向を、しっかり汲んだ対価としての献金につなげていただけたらと心より願っています。それほど尊い価値ある、神様に向けたお子様の決意だからです。
1世紀半ば、キリスト教会も誕生したばかりの、教会全体が未だ困窮状況に見舞われていた折に、聖パウロはコリントと言う町のキリスト信者に対して、エルサレムの教会を助けるべく、どのような心持ちや意向をもって、実際の経済的支援をしていく事が肝要かについて語っています。
「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリントの信徒への第二の手紙9:6~7)
皆様のお子様が作る「カード」が、いかに尊いものとして、その行いの実践が寛大に溢れたものであるほど、奉げられるクリスマス献金の大きさにも気づかされます。
小さな「志」の中にある、大きな「心」こもった温もり。
園 長 佐 藤 直 樹
幼稚園と敷地を同じくしているカトリック大和教会では、コロナ禍より食糧支援を実施しており、現在も毎月一回、53家族分の支援を始めてから早や4年目になりました。今年の5月に新型コロナが5類に移行した今も、様々な要因で食糧に困窮する家庭が、自分たちの足元にいる現実から目を背けることは出来ません。
支援のために、東京のカトリック学校の学生たちも、毎年12月には「自分たちが授業を受けている神父様の教会を助けたい…」と、学校を挙げて食料品を集めています。こうした外部の支援と共に、毎月なり毎週、必ず『お米2合』や『パスタ1袋』等の小さな志と支援を、この3年余り、欠かす事なく・確実にやって下さる大勢の方々がいることで、今も支援が続けられています。
支援一つを取っても、小さなところに大きなエネルギーが満ち溢れていることに気づかされます。11月からスミレ幼稚園でも、クリスマスに向けて様々な行事や活動を行っていきますが、キリスト教の精神でも、何より大切なのは「心」ある・「心」を込めた行動です。スミレ幼稚園が大切にしている「思いやり」・「やさしさ」・「親切」という温もりを日々の幼稚園生活から感じられるのも、子どもたち自身がお友だちや先生方に示す助けの手・支え・協力する姿勢・温かい声かけ等、小さな行いの実践からです。
お友だち(関係)から知る「わが子の理解」
園長 佐藤 直樹
私自身、カタカナや平仮名を覚えるために、夢中になって読んでいたのが『ウルトラ怪獣百科』でした。お陰様で今でも仮名文字だけでなく、初代ウルトラマンやウルトラセブンと戦った怪獣・星人の名前や顔・特徴等を忘れていないので、「この怪獣(星人)、何?」と写真を見せられても、「〇〇〇だよね」と普通に答えられます!幼い時に記憶したことや、理解の仕方のノウハウの影響は未だに大きいことを実感させられます。特に人について理解し、認知するノウハウの中で大切だったことは、単に人の名前と顔を覚えることではなく、交友関係(=人と関わること)を作り上げていく上で、その“人となり”を知る上で活かされてきたこと。また両親も子どもとの対話の中で、友達の名前やお友達の話題を通して、人を認知する力や、お友だちとの関わりの中で、本人が、どのように行動し、振舞っているのかを、子どもの近況を含めて伺い知れたのだと思います。
「○○君は、○○することが好きだよ(=友達の好きなことについての情報理解)」「○○ちゃん、先生のこんなお手伝いを、よくしてるよ(=友達の善い行動を認識する力)」「〇〇君は〇〇について、色んなことを知っていて、すごいね(=友達の特性理解)」「僕は、〇〇君○○ちゃんと今、こんな遊びをしているよ(=子どもの交遊関係と現況理解)」「明日、〇〇ちゃんが、僕に〇〇してくれるんだ(=友達のやさしさに触れる理解)」など、お友だち理解・人を認知する力・その人の特徴や特性を掴むこと・お友だちの行動に感化されることが、いかにお子様の成長につながるかを踏まえると、子ども自身のお友だち理解から、ご子息の理解も進めるかもしれません。
「見て!」「来て!」と「見に来て…」では、全然、違います。
園長 佐藤 直樹
登園後、朝の自由遊びの時間に各お部屋を見に行くと、年中長では、子どもたちから近づいて来るや「園長先生、これ見て!」と言われ、その日、作った工作や塗り絵・折り紙などの作品を、誇らしげに見せてくれます。また「園長先生、来て!」と、手を引かれて行くと、自分たちが夢中に遊んでいた遊びを、プライドをもって見せてくれます。年少さんの一人のお友だちからは、「来て」と手を引かれて行くと、自分で制服からスモックに着替えられるところを披露してくれました。
「園長先生、見に来てぇ…」と彼方から言われ、私自身のイニシャティブで見に行くことと、子ども自らが主体的に「園長先生、見て!」「園長先生、来て!」と意思をもって、こちらに動き、そのものを見せられるのとでは、その持っている本質が全然、違います。
お家生活ならば、「お父さん・お母さん、これして、あれやって」の、お願い事をされた際に、子ども自身が主体的に動いて、保護者の皆さんのところにお願いに来るか、それとも、願う子どもの元に親の方が動いてしまっているか。つまり、お願いを行動で「する」子どもの主体性なのか…、それとも、お願い「される」親の主体性なのかの、大きな違いです。
高濱正伸氏監修の著書の中でも「用事があるなら、自分から動こう」とあります。おそらく、自分の思いや願いを遂げる上で、親や大人を動かす事ではなく、大人の所に「自分から動いて」、その思いや願いを持ってくる行動に「主体性」という言葉の本質を感じています。
たかが「登園」・されど「登園」!
園長 佐藤 直樹
先週、東京にある私立小学校の校長先生と話しをした折に、チャレンジを抱えた小学校三年生についての話を伺いました。その子は未だ、母親無しでは登校できず、しかも昇降口まで見送らないと校舎にも入れず仕舞いと言うのです。更に母親の手を離れる折には涙目で「行ってきます」と寂しげに言うと、母親自身も、しばしのお別れに涙ぐんでいるそうです。
先日、学年で合宿に行った折には、合宿先にて四六時中ホームシックで泣き止まず、「お母さんの作ってくれたものでなければ食べられない」と食事も喉を通らずに断食したそうです。その話を伺い、思わず「うちの年少さんの今の状況と似ていますね」と言うと、校長先生から一言…「それは年少さんでしょう……うちは、もう三年生のはずですから…」。
スミレ幼稚園では、登園時に今、泣いている年少さんも、少しずつ笑顔で登園するようになります。年中・年長はあたかも当然のように、自分から主体的に「おはようございます」「行ってきます」と挨拶すると、実際に自ら親の手を離し、自分で靴を履き替え、自分自身の足で立って園舎の中へ歩いていきます。まさに子どもながらに「自立」を果たす瞬間です。
「主体的に」+「自ら」+「自分の歩むべき所に向かい」+「(行動)する」と言う、「自立」の一連のプロセスが、朝の登園の中には秘められています。