スミレ幼稚園
スミレ幼稚園ロゴ

幼稚園だより

人はパンだけでいきるものではない(マタイ4,4)

人はパンだけでいきるものではない(マタイ4,4) カトリック教会では今御復活祭を迎える準備をしています。ご存知のようにイエスの復活の前、彼は十字架の刑を受け殺され墓にほうむられると言う苦難の時を過ごします。厳しい道、「十字架の道」とか「茨(いばら)の道」とか言われています。出来れば「痛み」とか「苦しみ」は避けて通りたいものですが、そのようなわけにはいかないことが現実には多々あります。

 聖書には、イエスが人々に教えを説いて回る前に40日間の厳しい修行のような時を過ごされた事が書かれています。その間飲まず、食わずの断食でした。一番空腹の時、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔から誘惑された時「人はパンだけで生きるものではない」と答えられたと書かれています。

 人は苦しいときは、その苦しみをすぐに取り去り、激しい欠乏の時は、急いで満たそうとします。40日間何も食べていないイエスの空腹時に、腹を満たすパンは喫緊の問題だったことでしょう。こんな時こそ「誘惑」や「そそのかし」というものが弱い時の人間にはおそってくるものです。

 最近は児童虐待のニュースが多いですね。自分の子を死なせるほど厳しい対応をしてしまう若い親たちの話でもあります。それほど子供を憎んでいるとは思えません。むしろ本当を言えば可愛く思い、かわいがっていたことでしょう。死んでしまうとか、傷つくとか、その結果自分たちが刑罰を受けるとか思ってもみなかった事でしょう。親子の深い愛情関係にありながらつい虐待をしてしまっていることに気づくと言うことでしょう。社会的な繋がりに乏しく、閉鎖的な生活環境が続くと、弱い立場にある自分の子供に当たってしまう誘惑に負けてしまうようです。

 子供は自分たちの未来そのものです。その未来を思いやる事より、現在の面倒くささ、やっかいさを取り去ることに目が向けられてしまいます。誘惑です。現在のつらさ、苦しみを避けることばかりに気を奪われると、未来を築き上げることを忘れてしまうのです。

園長 鈴木正夫

 

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-04-08

人間は何者でしょう。月も星もあなたが配置なさいました。(詩8.4・5)

30億キロ地球から離れたリュウグウという小さな星に、計画通り到着し、そこにある砂・石等を採取してまた一年以上かけて地球に戻ってくることが実現しそうです。JAXSAの関係者が「ハヤブサ2」について「人類の手が30億キロも離れた遠いところに手が届いた」とコメントいたしました。本当に素晴らしい希望を与える良いニュースでした。

片や地球ではICBMと言って何千キロ先まで核爆弾攻撃できる物騒なミサイルがつくられ、そのような大陸間弾道弾のような戦略兵器作りを止めようと、これまで戦略兵器制限条約(SALT)が結ばれていましたが、トランプさんによって破棄され、ロシアの方も破棄を決めました。要するにロシア・アメリカ・中国そして明日トランプさんと逢うことになっている北朝鮮の金正恩さんの国が実質的にこのような条約に該当するのでしょう。

30億キロ離れたところのコントロールは効くのですが、おなじ地球に住む各国の責任者の心は思うようにコントロール出来ないのです。

「人間は何者でしょう。月も星もあなたが配置なさいました。」現代の宇宙科学を知らない紀元前の時代に書かれた聖書の言葉です。もちろん137億年前にビッグバンがあり宇宙が始まったという科学的な視点はありませんでした。人が宇宙を造ったわけではないので当然神様が「月や星を配置なさった」と理解しています。自然や天体を見て紀元前の人々も同じように、なぜこのような自然があり、天体があり、人間はその中に存在しているのかを問うたのです。そして「人とは何者でしょう」と問うています。

ブルーバックス(科学的な内容の講談社の書物)に最近「科学者はなぜ神を信じるのか」三田一郎著という本が出されました。三田一郎さんは素粒子物理学の研究者でノーベル物理学賞をもらった小柴昌俊さんとの親交のあるその道の大変な学者ですが、カトリック教会では助祭と言って神父さんの位のような立場で教会の仕事をしている方です。科学的な宇宙の解明をすることと、その宇宙の存在をどう受け止めるかは人それぞれです。わからないので「神」を信じる。つまり「思考停止」ではなく、よく考えた上で「神」を信じる多くの科学者がいるのも確かです。

スミレ幼稚園 園長鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-03-04

コリント人への第1の手紙 4-7

いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるだろうか(1コリント4,7)

体験入園がありました。親から離れられない子も居ますが、夢中になっておもちゃ遊びに没頭している子が大半です。自分から話しかけてくる子も居れば、そばに立っている私の手を引いて自分のブロックの組み立てを見てもらおうと当然のように私を引っ張っていく子も居ます。「すごいのをつくったねー」と言って、思いを一緒にします。ブロックがある程度高くなるとバランスを崩し、倒れてしまいます。そのことであまり残念がったりはしません。すぐにお隣の子が使っているパーツを平気で拾っては自分の積み立てに使用します。持って行かれた子も自分のものだとは主張しません。実に平和な光景です。

「格差社会」と言われて久しい。世界の富の偏りが激しいのです。ビル・ゲイツさんをはじめ世界のトップ8人の資産総額が36億人(世界人口の約半分)と等しいと言われています。また世界全体の1%の富裕層の富が残りの99%の富を上回っているとも言われています。富めるものは益々富み、そうでない者はますます貧しくなっていると言うことです。富裕層の富(財)は最も貧しい人々の犠牲の上に成り立っているのです。

紀元50年頃のキリストの使徒パウロの書いた手紙の中にある言葉です。富めるものと貧しい者の問題が聖書の中で扱われています。「もし、いただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなた方はすでに満足し、すでに大金持ちになっています。」と書いています。現代の私たちの感覚では、「いただいた」とは思わず、努力して獲得したと思っています。他の人より賢く振る舞い、言い方を変えればずる賢く、戦略を練り、競争に勝った「勝ち組」である、と言うような感覚でしょうか。

神様の視点から言えば、地球上にあるすべての財(富)は人に委ねられたおくり物であって、それは地球上に住むすべての人や生き物のものです。偏った人々の牛耳る物ではないのです。持っている物は持たない者に分けるのが筋なのです。そうはいっても、この考え方は、現実とほど遠いもので、努力して儲ける事を知っている賢い者が手に入れることの出来るものと言う論理につき戻されてしまいます。

体験入園の子供たちのように、だれのものなのか気にせず、そこにあるものを自由に使って楽しい遊びに夢中になれたらどんなにすばらしいことでしょう。

園長鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-02-01

耳のあるものは聞きなさい(マタイ13,9)

新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくおねがいいたします。今年は平成も終わり、新たな呼び方に変わる年です。どんな元号になることでしょう。

さて、時の流れは自分の手中にはなく、自分の個人的思いに必ずしも沿っているとは限りません。園長のように70歳をこえる年齢のものには残された年月の事をおもいます。若い人にとってはわくわくするような期待に満ちた年を期待したり、逆になかなか過ぎ去らない時をやきもきしながらなんとかやり過ごしたりの感じでいる場合もあるでしょう。

「耳のあるものは聞きなさい」など聖書の中には「耳」とか「目」とか人間の器官で神様の教えのことを表現することがあります。「耳があっても聞こえず」「目があっても見えない」耳はだれでも持っていますが、聞こうとするその人の思い(こころ)がなければそれこそ「耳があっても聞こえない」のです。あなたに大事な事が語られているのに、耳を傾けないことであって良いのか。大事なことが日々あなたの周りで起こっているに、あなたはどこを見ているのか。と言うことでしょう。

神様からは、たくさんの「恵み」が与えられていますが、その恵みに気づき感謝しながら生きているでしょうか。過ぎた年月を思えば多くの恵みを得ながらほとんど無駄にしてきていることに気づかされます。健康の恵み、人との出会いの恵み、そして一番気づきにくいものが、当たり前と思っている身近な人(家族)の存在です。彼らの支えによって今の自分が成り立っていると言うことです。「ありがとう」と一言も言わないまま過ぎ去った日々かもしれません。

新しい年を迎えました。改めて身近な人、特に言い方の良くわからないこどもに「聞く耳」を持つ年、身近な人をしっかりと「見る目」を養っていく年としたいものです。

園長 鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2018-12-25

「世はことばを認めなかった」(ヨハネ1,10)

今年もクリスマスがやってきました。スミレ幼稚園では「クリスマス聖劇」の練習が始まります。マリア様の役・ヨゼフ様の役・兵隊・宿屋さんの役などその他いっぱいの役で構成されています。初々しい4歳・5歳・6歳の子供たちの心に生涯残るクリスマス物語でもあります。

新約聖書の中に「福音」と言われている箇所が四つあります。「マタイによる福音」「マルコによる福音」「ルカによる福音」「ヨハネによる福音」です。読み方は「ふくおん」ではなく「ふくいん」です。「クリスマス聖劇」はこの四つの福音書の中の「マタイによる福音」と「ルカによる福音」の二つの福音書の中に書かれてある「イエスの誕生の物語」を元にしてつくられたものです。四つの福音書のうちで最後に書かれたと言われる「ヨハネによる福音書」には「イエス様の誕生」に当たると思われる部分を全く違った切り口で表現されています。

それによればイエス様の事を「神のことば」と表現し、この「神の言葉」は、「肉となって、私たちの間に宿られた」とあります。「ことば」はこの世に生まれた。しかし「ことば」は自分の民のところへ来たのに、民は受け入れなかった。と記されています。

聖劇の中でトン・トンと泊まる宿屋の戸を叩くシーンがあり、身重になったマリア・ヨゼフたちは泊めてもらえないお話になっています。

今ゴーンさんの事件が話題になっています。会社経営・経費削減でギリギリに追い詰められた従業員が居るとすれば、そのトップが気の遠くなるような何十億の金で私腹を肥やすという話題です。「神の言葉」は果たしてどこで受け入れられるのだろうか。

園長 鈴木正夫

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2018-12-06
1 2 3 4 5 6 11