スミレ幼稚園
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幼稚園だより

取って食べるなと命じた木から食べたのか(創世記2-11)

気候変動なのか方々で豪雨になったり、土砂崩れが起こったりしています。普通の夏という言葉も意味をなさなくなっています。毎夏普通でないからです。今年はなかなか梅雨が明けず雨ばかりの7月、子どもたちの「お水遊び」ができる日が圧倒的に少なかったのを思い出しています。

豪雨や熱射病の話題は基本的には自然災害で、昔はどうにもならないものとあきらめていましたが、地球規模で語られるようになり、CO2の増加をもたらした人間の責任、つまり人災と思えるようにもなりました。自然環境は人類に任された神様からの贈り物ですが、人間は十分に配慮しなかった事になります。ブラジルのアマゾンの熱帯雨林は「地球の肺」と呼ばれています。ブラジルのトランプと言われる大統領は、火災になった今森林地帯の火消しを軍隊に命じ、自分も森林を大切にする人間であるかのように振る舞っています。彼の説明では、「すでに伐採してしまった不要な樹木を方々で人びとが焼却処分していて火事になった」と。伐採を容認し、目先の産業開発を進めている彼のお粗末な言い分でもある。

人が神の言いつけに背き、罪を犯したときの話しが、聖書の初めの方に書かれています。人間は何をしても良いが、神のために残しておかなければならない木の実がある。それだけは残しておくように言われている。しかし人間は無視し、神の領域を侵してしまう話しです。「おまえが裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」自分が裸であることに気づき、神の前から隠れる人間の姿が物語られています。大自然そのものを根こそぎ破壊することは人類の滅亡を意味しています。もう取り戻すことのできない最終ラインのところまで来ているような気がします。

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-08-30

子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。(マルコ10.14)

先日の授業参観日(5月29日)にスミレ幼稚園は「新教育要領」に従って、これまでの見直しと、新たな試みに向かって動きだそうとしていることをお話させていただきました。

幼児期は色々なことをこれから学ぶにあたって、幼稚園はまず安心できる場所である事が大切です。そのためには先生たちとの良い人間関係を構築することが大切です。子供が一番話したい相手は、担当の先生であるような関係になれることです。どんなことでも何でも話せる相手、どんなことでもしっかり聴いてくれる先生が居て安心が実現します。自分をわかってもらい、自分の存在をだれよりも認めてもらえているとその子が実感できれば子どもは安心し、それを踏み台として何にでも主体的に挑戦できることでしょう。子どもが主体的に行動を起こすことが大切です。新教育要領の主旨はこのあたりにあります

家庭おいても基本はおなじです。自分の子供であってもその発言に耳を傾けること、舌足らずの言葉でも、その言いたいことを聞き取り、わかってあげること、時に正しい言い方(ことば)を丁寧に、優しく教えていくことは大切な日々の子育ての実践でしょう。

町を通りかかったイエスをみて、人びとが自分の子に触れていただけるよう子どもたちを連れてきましたが、弟子たちは人々を叱ったとあります。きっと幼児教育云々の時代ではありませんでしたから、弟子たちも当時の普通のやり方に従ったのでしょう。偉い先生のところにわけのわからない子供はふさわしくないとでも、単純に思ったのでしょう。それを見てイエスは「憤り」と書いてあります。「子どもたちを私のもとに来させなさい。妨げてはならない」と教え、子供たちを抱き上げ、手を置いて、祝福されたと聖書に書かれています。満面に笑みをたたえてイエスは子どもを抱き上げ、ひとり一人を祝福されたことでしょう。そうしますとイエスは最高の幼児教育者でもあったといえます。

園長 鈴木正夫

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-06-05

あの方は復活なさってここにはおられない(マルコ16,6)

4月21日は教会では復活祭が行われました。伝統的なカトリックの儀式が行われイースターの卵も配られました。卵の中からひよこが出てくるように、暗い死の墓からイエス様も復活されたことを祝っているのでしょう。

復活と言えば、死んだ体がもとの体に生き返ると言うことより、全く新しい命にかわるという意味で理解されます。生き返ってもいずれまた死んでしまうような生き返り方ではないのです。もう死ぬことのない神様の命の中に、永遠の命とも言われているものに変わるのです。

死んだらすべて終わりと一般的に考えられています。きっとあの世の世界の話でもしているのでしょうと片付けられることもあります。

新学期が始まり、新しい園児たちが登園しはじめました。なかなか教室に入れず親から離れられない子供もいます。親の方は始まるとすぐにお迎えの時間が来てしまい、特にこの期間、親は子供のためにはり付けになっています。子育てには自己放棄が余儀なくされます。自分のためではなく、必要なことのために使われる自分の命というものを実感しています。自分の時間が奪われてしまっているのです。このようなことを愛の行為と呼んでいます。

復活の出来事は、「いのち・愛の意味」を考える時でもあります。イエスは人を愛することを教え、生き方を通してそれを示されました。しかし2000年以上経った今でも、まだ人の命が軽視され、スリランカでは日本人をも巻き込む自爆テロがあったばかりです。「愛の教え」はどこへ行ったのでしょう。長い歴史の中で「愛の教え」は何度も殺され、墓に葬られています。キリストの出来事のようです。それでも見返りを求めない、ひたすらに子どもの命を守ろうとする親たちの愛をはじめ、嘘ではなく正しいことを必死に守り抜こうとする人、人の過ちをゆるしどこまでもつながりを絶やさない人、弱い立場の人に手をさしのべる優しい人々が居ます。愛を実践しようとすれば大変です。疲れます。時間やお金まで使うことになります。時には命まで危険にさらすことにもなるのです。イエスのように殺され、二度と出て来れないよう墓に葬られるような事にもなります。しかし、そのような人こそ永遠に死なないイエスの復活の命をいただくことになると言う教えが復活の信仰です。

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-05-09

人はパンだけでいきるものではない(マタイ4,4)

人はパンだけでいきるものではない(マタイ4,4) カトリック教会では今御復活祭を迎える準備をしています。ご存知のようにイエスの復活の前、彼は十字架の刑を受け殺され墓にほうむられると言う苦難の時を過ごします。厳しい道、「十字架の道」とか「茨(いばら)の道」とか言われています。出来れば「痛み」とか「苦しみ」は避けて通りたいものですが、そのようなわけにはいかないことが現実には多々あります。

 聖書には、イエスが人々に教えを説いて回る前に40日間の厳しい修行のような時を過ごされた事が書かれています。その間飲まず、食わずの断食でした。一番空腹の時、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔から誘惑された時「人はパンだけで生きるものではない」と答えられたと書かれています。

 人は苦しいときは、その苦しみをすぐに取り去り、激しい欠乏の時は、急いで満たそうとします。40日間何も食べていないイエスの空腹時に、腹を満たすパンは喫緊の問題だったことでしょう。こんな時こそ「誘惑」や「そそのかし」というものが弱い時の人間にはおそってくるものです。

 最近は児童虐待のニュースが多いですね。自分の子を死なせるほど厳しい対応をしてしまう若い親たちの話でもあります。それほど子供を憎んでいるとは思えません。むしろ本当を言えば可愛く思い、かわいがっていたことでしょう。死んでしまうとか、傷つくとか、その結果自分たちが刑罰を受けるとか思ってもみなかった事でしょう。親子の深い愛情関係にありながらつい虐待をしてしまっていることに気づくと言うことでしょう。社会的な繋がりに乏しく、閉鎖的な生活環境が続くと、弱い立場にある自分の子供に当たってしまう誘惑に負けてしまうようです。

 子供は自分たちの未来そのものです。その未来を思いやる事より、現在の面倒くささ、やっかいさを取り去ることに目が向けられてしまいます。誘惑です。現在のつらさ、苦しみを避けることばかりに気を奪われると、未来を築き上げることを忘れてしまうのです。

園長 鈴木正夫

 

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-04-08

人間は何者でしょう。月も星もあなたが配置なさいました。(詩8.4・5)

30億キロ地球から離れたリュウグウという小さな星に、計画通り到着し、そこにある砂・石等を採取してまた一年以上かけて地球に戻ってくることが実現しそうです。JAXSAの関係者が「ハヤブサ2」について「人類の手が30億キロも離れた遠いところに手が届いた」とコメントいたしました。本当に素晴らしい希望を与える良いニュースでした。

片や地球ではICBMと言って何千キロ先まで核爆弾攻撃できる物騒なミサイルがつくられ、そのような大陸間弾道弾のような戦略兵器作りを止めようと、これまで戦略兵器制限条約(SALT)が結ばれていましたが、トランプさんによって破棄され、ロシアの方も破棄を決めました。要するにロシア・アメリカ・中国そして明日トランプさんと逢うことになっている北朝鮮の金正恩さんの国が実質的にこのような条約に該当するのでしょう。

30億キロ離れたところのコントロールは効くのですが、おなじ地球に住む各国の責任者の心は思うようにコントロール出来ないのです。

「人間は何者でしょう。月も星もあなたが配置なさいました。」現代の宇宙科学を知らない紀元前の時代に書かれた聖書の言葉です。もちろん137億年前にビッグバンがあり宇宙が始まったという科学的な視点はありませんでした。人が宇宙を造ったわけではないので当然神様が「月や星を配置なさった」と理解しています。自然や天体を見て紀元前の人々も同じように、なぜこのような自然があり、天体があり、人間はその中に存在しているのかを問うたのです。そして「人とは何者でしょう」と問うています。

ブルーバックス(科学的な内容の講談社の書物)に最近「科学者はなぜ神を信じるのか」三田一郎著という本が出されました。三田一郎さんは素粒子物理学の研究者でノーベル物理学賞をもらった小柴昌俊さんとの親交のあるその道の大変な学者ですが、カトリック教会では助祭と言って神父さんの位のような立場で教会の仕事をしている方です。科学的な宇宙の解明をすることと、その宇宙の存在をどう受け止めるかは人それぞれです。わからないので「神」を信じる。つまり「思考停止」ではなく、よく考えた上で「神」を信じる多くの科学者がいるのも確かです。

スミレ幼稚園 園長鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2019-03-04
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