スミレ幼稚園
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幼稚園だより

人はパンだけで生きるものではない(マタイ4,4)

園庭のブランコその他の遊具がきれいになりました。ついでに鉄棒の横にあるマテバシイの木もきれいに剪定しました。今年の運動会はすっきりした感じで迎えられそうです。話によれば、今年剪定された木は来年には花を咲かせないらしい。教会の入り口の二本のキンモクセイもきれいに剪定いたしました。そろそろキンモクセイの時期ですが、今年はいつも楽しみにしているいい香りは望めそうにありません。自然には自然なりの決まりがあり、人間の都合の良いようにはいかないことがわかります。

人間は品種改良とか、遺伝子組み換えとか色々な形で人間の都合の良いように自然を変えてきた経緯があります。ナシやブドウなど秋の味覚も一昔前に比べれば格段に大きく、甘く、しかも綺麗になっています。それにしても、地震や台風、最近は竜巻などの自然災害が目立つようになってきました。一度に降る雨が半端ない量になったり、地球規模では氷河が溶け始めたり、ある島が水浸しになりつつあると言う話もあります。人は自然を多少操作できても自然そのものをすべて思い通りにはコントロールできないという現実に向き合わされてしまいます。人の生や死も同じです。

なぜわたしは生まれ、なぜわたしは今ここに居るのか。そしてなぜわたしは死ななければならない存在(自然)なのか。この問題にはいつか自分自身で答えを出さねばなりません。「人はパンだけで生きるものではない」と聖書にあります。食べ物によって生物学的いのちが保たれればよいということではないことをいっている言葉です。人としての命のあり方に目を向けさせます。友達が川におぼれ、助けにいった方が死んでしまったと言う話があります。それは、一見無意味な行動であったようにも見えますが、人を助けようとした彼の行為は、間違いなく、人らしいいのちのあり方であったと思うのです。

園長 鈴木正夫

 

カテゴリー:聖書のおことば - 2017-09-29

私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。(ヨブ1-21)

八月も後半になり、少しは涼しくなるのかと思いきや、30度度を超える暑さが続いています。25日33度。お預かりの子供たちも水遊びで過ごしました。

異常気象と一言で言ってしまえばそれまでですが、今年の夏は台風・居座り低気圧等で集中豪雨があり、各所で地滑り、土砂災害があり、道路も寸断されました。楽しみにしていた、長野県での教会関係の子供たちのキャンプは、ほとんど毎日が雨。最後の一日だけが少し日が射しただけでした。

人間の手では制御できない自然という、時にはやっかいな現実というものがあります。人の死もそうです。今年もたくさんの方々を見送りました。火葬のあと、お骨を拾うことにも立ち会いました。立派な棺でかまどに入れられましたが、ほんの一時間過ぎでわずかなお骨となって出てきます。係の方が、冷静に「これは、のど仏、下あごで・・・」などと説明する姿が思い出されます。生前は笑ってお話をし、また悩まれておられたあの方は、どこに行かれたのだろうか。

「私は裸で母の胎を出た」というのはヨブ記という聖書の中にある言葉です。神を恐れ、悪を避ける正しいヨブは大富豪でした。ところが一夜のうちに、恵まれたすべての子供たちや財産が奪われることになりました。神を呪うのではなく、自分の存在の現実を冷静に言ってのけた言葉と受け止められます。

特にいやな現実を認め受け入れることは誰でも勇気の要ることです。でも、人はおごることなく、心のどこかで、思うように行かない「存在の現実」に気づいていることが大切であることをいっているお話でもあります。

園長 鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2017-08-30

惜しんでわずかしか種をまかない者は、刈り入れもわずか(コリント二9,6)

家庭の支出の割合はどうなっているでしょうか。普通あまり気になっていないかもしれません。衣食住が賄えることが基本でしょうが、なんでもありのこのご時世、あれこれと出費がかさんでいるのは、どの家庭も同じでしょう。教養娯楽費という言葉があります。新聞をはじめ、本・音楽・映画・演劇など文化面に使うお金です。どうしても衣食住の基本が最優先で、余裕があればということでしょうか。

国の予算配分ではよく「骨太の」とか言われる予算が発表されています。軍事費が伸び経済効果を上げるためか、大企業の法人税が引き下げられ、中小企業は伸び悩み、格差社会の傾向が見えるように思われます。豊洲・築地の公共工事の話でもちきりです。公共の大きなお金がどこに投資されるのか、それは為政者の思想にかかっています。

それにしても、社会はこれからも続いていきます、子どもたちの未来と関ります。働いて食べていける社会構造をしっかり構築してほしいものです。戦争・災害等でも起きればすべてが破壊されていきます。平和憲法にこだわるのも当然なことでしょう。

ナショナリズム(国粋的考え)に走らず、どの国とも友好関係を築き、協調し、敵をつくらない平和的施策に専念すべきかと素人なりに考えます。そのため、子供たちにはしっかりとした教育が必要です。教育は人としての教養を深めるような人間教育のことです。

すぐに採算がとれるとは思えない教育費にどれだけ多くのお金を割くことができるかが重要になってきます。思い切って教育に力を注ぎましょう。

園長 鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2017-07-03

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」 (マタイ6,28)

ことしもオタマジャクシがカエルに変身し、池から這いあがり地上を跳ね回る光景にであいました。1㎝位の黒い粒に見えますが、長い脚と可愛い手がしっかりついています。目ざとい子どもがそれを見つけ、触ることさえできず長い間見つめている様子でした。捕まえて手に乗せ、子どもに近づけるとあわてて身を避ける子どもがほとんどです。何をどのように感じたのでしょうか。いのちの驚きの体験に、その対応のし方にとまどったのでしょうか。人間とカエルの違いは大きいにしても、同じ生き物としての存在を本能的に感じとった瞬間だったようにも思われます。

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」ここはカエルのような小動物ではありませんが、聖書のこの言葉を思い出します。「明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ6,20)

あらゆるコミュニケーション機器が進化し、人の手でつくられた人工知能(AI)がこれからの世の中を支配することになることでしょう。全てが人のコントロール下に置かれるような時代だからこそ、人が造ったものでないものに目を向ける必要があるように思います。自分自身の「いのち」をはじめ、自然のいのちの営みに目を向けさせることは大切な教育の内容だと思うのです。雨の日に傘をさし、長靴をはいて登園し、かたつむりを見つけたり、アジサイの花をみたり、塀越しに黄色く熟れていくビワの木を眺めたりしながら季節の移り変わりに気付かせることが本当の意味での深い教育なのではないでしょうか。

園長 鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2017-05-31

わたしの律法を彼らの胸の中に授け、心にそれを記す。(エレミア31,33)

道徳の教科化が小学校は2018年から中学校は2019年から始まることが決定されました。いじめや自殺など、人の命や自分に与えられた命に対してもおろそかにされている時代を危惧してこのような学校での道徳の授業が見直されるようになったのでしょう。

さて道徳は教科として点数による評価対象となることによって教えられるものだろうか。長い間中学校・高等学校で倫理道徳を担当してきた体験から言って、違和感を覚えます。倫理・道徳の点数は良いが、学校生活の中では、人へのやさしさ、思いやり、協力の精神に欠けた人間の多いこと。ことばや理屈で学んでいくことは、まったく無意味とは言えないものの、本質は道徳的な態度であり、そこでは当人の人を思いやる配慮とか、それによって生じる自己制御、時には自己犠牲の能力がもとめられるものでもあります。

スミレ幼稚園では「だーれか だーれか ブーランコ かーわってー」と言いながらブランコの順番を待つ光景が見られます。「あと、5回したら代わってあげるね」と反応する姿も見られます。「○○ちゃん、よく代わってあげましたね。えらいわねー」そばで、しっかりサポートすることの繰り返し。これが教育だと思います。幼少期は大切です。律法(神のおもい)は紙の上に書かれるのではなく、わたしの心の中に記される事です。

園長 鈴木正夫

カテゴリー:聖書のおことば - 2017-05-08
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